2006現在までのサイトー(筆者)さん経歴

2001年
早稲田大学経済学部入学

2002年
様々な契機を経て、英語学習を開始する。(模擬試験再受験、偏差値80超(9月)、TOEIC820点獲得(12月))

2003年
英語学習が加速しだす。同時に英語人生をゆるがす、衝撃的事件が訪れる。フランス人の友達が出来、初めて英語で人とはで話す機会が訪れるが、全く通じず、今までの努力を全て否定される事態に。communicationについて、そもそも「英語とは何か、言語とは何か」に考え始める。(国連英検A級合格(6月)、TOEIC865点獲得(6月) TOEIC905点獲得(12月))

2004年
難関である早稲田大学交換留学に合格。(TOEFL230点獲得/300点満点)一年間アメリカNY、Syracuse大学へ、校費留学決定。この時、就職という道を完全に断ち、人生全てを未だ全く経験のない、「留学」に、次の新しい人生そのものを賭けることを決意する。同時に早稲田大学を3年と半年で全単位取得(プログラム上、最速)。これを機に所属していた国際金融のゼミを自主退部、「経済学」を完全に修了する。

いよいよ準備が整った6月、早稲田で自主的に参加した「linguistic ゼミ」に感動し、linguisticに強烈な興味を抱くようになる。(今現在も尊敬する、早稲田大学Professor. Newell氏が担当)

同じく6月、念願の大目標であった英検1級の一次試験に合格も、二次にて不合格A。

8月、運命のアメリカNYへ留学。(ちなみに初海外)

留学一年目

9月、人生を完全否定される。言葉が全く通じず、日常会話でさえ理解不能。また文化にも全く適応できず、まさにIDIOT。初めて人間として最低限の扱いをうけ、またそれを受け入れてしまうくらい、自分の低レベルにきづく。それでも授業では無謀にもgraduate(大学院プログラム)に挑戦し、初めて本格的にlinguisticを学ぶ。しかし当然のごとく、最初からつまずき、勉強でも挫折する。

10月、基本的に日本での蓄積は何の役に立たないことを痛感し、自分を180度進化させなければ、この地アメリカでは生きていけないと気付く。

ここアメリカの文化を身につけ、対等に生きていける、という当時では考えられない目標をたてる。その最優先事項として英語を鍛え上げるのが一番と思い、日本語を一切絶つことを決意する。友達、両親、誰からも消息を絶つ。24時間、365日、全て英語だけの生活が始まる。

基本的にこのころは、いかなる失敗も失笑にも耐えられる「免疫」がつく。そして人生で一番あがく。「外国語」としてではなく、「第二言語」として英語を学ぶことについて深く考えるようになる。そして毎日毎日言語の壁、文化の壁に悩みに悩む。「アメリカ人の親友を作りたい」、そうアツく語り、自分よりはるかに積極的に動くもうもう一人の早稲田留学生に刺激される。また彼と競い合う意識が芽生える。

11月、親友PAN ALEXに会う。(上海の大学で飛び級し、なおかつTOEFL満点で渡米してきた若干21歳の大学院生)脅威の積極性、アメリカという文化に異次元のスピードで入ていく奇跡を目の当たりにする。そして共にアメリカの文化、アジア人がその壁を越えることについて、毎日語り合い、そして二人で常識はずれなペースでの挑戦がはじまる。

12月「1年では足りない、アメリカで完璧に満足するまで残りたい」と強く決心し、同大学のlinguistic学部、大学院コースへ入学へむけ、applicationを出願する。学部長から推薦状をもらう。受験したTOEFLで270点/300点満点を記録する。

1月
2学期目が始まる。アメリカ人とのcommunicationが60%可能。internationalstudents なら100%可能になる。linguistic学部で最も有名である、Bhatia教授の授業を受け、感銘する。改めてlinguisticへの思いを強める。また同時に世界中からあつまるクラスメートにも、毎日刺激をうける。

2月
Syracuse大学linguistic大学院コースから、正式に合格。同時に、非常勤講師(日本語TA)の職、そして授業料全額免除の申し出を受ける。この頃から、英語を最終段階へ引き上げを図る。アメリカ人をメインにしぼったcommunication専念する。それでももちろん、言語だけでなく、文化の違いに改めて何度も挫折する。

3月
突然TAスカラシップがキャンセルされる。次の人生が一気に閉ざされる。その理由はより良い人材が手に入ったということ。しかし実情は自分の英語力が、合格点に達していないことが大きな理由だと告げられる。毎日教授のOFFICEに通い、大騒ぎになる。あきらめたら、人生が終わる、こう強く心にとめ、抗議を続ける。

4月
この頃からアメリカ人とも80%というほぼ完璧に近くcommunicationをとれるようになる。そのとくに親しかったアメリカ人3人から、次の年は一緒にすまないかと誘われる。交換留学の終わりが迫り、残りたいという気持ちが強くなる分、TAの講義は平行線をたどる。

5月
交換留学が終わる。同時にもう卒業単位を取得していた早稲田大学も卒業。TAの講義は結局、実らず、ただ一コース無料で受けられるという特権を得るにとどまる。しかし日本に帰っても、自分にはやるべきことは何もないことを痛感している。

6月
アメリカに帰国。多少の学費を払っても、経験には替え難く、アメリカ人3人と同居、そして大学院生活1年目を開始させる。

2005年 留学2年目

9月
大学院が始まる。この頃から今までにまして睡眠時間が少なくなる。勉強と文化探求の日々。

12月 
72時間、あまりの多忙に眠れないということを経験する。(期末試験、そして文化探求)この頃でもう1年と半年近く、定期的に日本語を使っていないことに気付く。軽く漢字が書けなくなる。冬休み、アメリカ人の友達の家を全部回る。所用期間一ヶ月。最後はNYCのブロンクス、ハーレムに住むBLACKの友達の家にもう一人のWHITEの友達と泊まり、様々な極限的な経験をする。英語での生活がほぼ問題なくなる。この頃のふるまい、話しかたなど、「とても1年半のアメリカ滞在とは思えない」との評判をうけるようになる。

1月
日本へ強制送還。完全に無一文になる。(TOEFL受験、297点/300点満点を獲得する)

2月
東京都心、某英会話スクールから史上最年少でTOEIC講師に採用される。TOEIC600点講座をシラバスから任される。東京某大手予備校、英語科に所属する。(念願である英検1級に楽勝合格、そしてTOEIC965点も取得(LIS満点))

3月
Syracuse大学から、正式に非常勤講師(TA)のオファーを再び受け、復学が決まる。

7月
日本での職を辞め、アメリカへ帰国。

現在の状況
Syracuse大学linguistic大学院2年生同時に同大学のJapanese101を担当する非常勤講師でもある。(給料つきで、なおかつ学費は全額免除。アメリカでも何とか自立出来るようになる。)毎日の過剰な勉強時間に加え、アメリカ5人の一緒に住み、いまだ毎日新鮮な学習の毎日を送っている。現在の一番の興味は、phonologyをからめた英語教育。そしてsocio culturalなTESOL アプローチの二つ。基本的に、第二言語の習得に興味を抱いている。

偏差値70からの大学受験 ラスト〜その後編と「お別れ」

 大学4年間、僕を心の底から夢中にさせたもの。それは何を隠そう、「学問」だった。
 
 僕がとった将来への選択。それはさらに「学問」を追い求めるという道。院進学も視野に入れながら、僕は今夏留学する。俗に満ち、「偏差値」に溺れあがいた男の、誰もが想像し得ない一応の結論だった。
 
 就職活動が迫ってきた。世間で言う一流企業、エリートコース。もう僕には全く眩しくは映らなかった。
 それよりも自分自身の学問における「可能性」。さらに努力を続ければ、こんな僕でもどこまでその「可能性」を広げられるのか。
 可能性は「学問」だけじゃない。その先にもまだまだあるみたいだ。一つ「学問」の可能性を見つめていたら、まだまだ様々な領域で、様々な可能性の扉があることに気付かされる。
例えば人間関係、スポーツ、肉体的能力。もちろん就職、社会での適応能力。挙げればまだまだ尽きないだろう。もしもその全ての扉を開けることが出来たなら、一体どういう自分に出会えるのだろうか。胸の高鳴りは収まらない。
 だからこそ、まずは「学問」を究めたい。一つ目の可能性をこの手でこじ開けたい。
 「4年終わったら早く就職しなきゃ」、もうそんな時間感覚に意味はない。
 
 まだまだ僕はこんなもんじゃない。まだまだ成長出来るんだ。
 
 図々しくもこんな思いに囚われてしまった僕。
 そこにはもう外部の価値基準など、全く必要はなかった。
 皮肉なことだが、世間の言う「自分自身の物差しが必要なんだ」というキレイゴトが、今僕にとって一番大切なことになっている。

 
 振り返るのも難しいが、そんな結論に至った僕の大学生活はこうだった。
 
 
 どこにでもいる普通平凡の僕が、あの時「受験」を通して人生自体ある種異常な加速を上げた。
 聞こえ良く言えば、「目標」「夢」にむけ頑張った。聞こえ悪く言えば、「努力」という一種の苦しみに耐え抜いた。
言い方はどっちだっていい。そうして、ただひたすら上だけ見つめてがむしゃら走り続けたら、ほんの少しでも自分自身の新しい「可能性」を見つけ出せた。少なくとも「勉強」という領域では、全く想像さえ出来ない新しい自分と出会うことが出来た。
 自分自身の可能性を見つける一種の歪んだ喜び。そしてその方法。
 
 これを体感してしまった僕が大学に入学した。
 
 もう何も強制は無くなったが、今更走りを止めるなんて気持ちは一切起きなかった。せっかくついた加速だ、無駄にはしたくない。
 「初めつらいけど、どんどんやりだせば楽しくなるランナーズハイ」、これがどんな事でも自分を新しい可能性へと押し上げる「流れ」。
 こう確信を持っていた僕は、ひとます授業で触れ得る様々な「学問」に、時に情熱的に、時に冷静客観的にも没頭した。専門の経済学を筆頭に、文学、法律、社会学。そんな中で、特にのめりこんでいったのが「英語」だった。大学では「言語学」と呼ばれる領域である。今思えば僕にとっては俗っぽい、という点がよかったのか。ともかく熱中していった。
 気がつけば教授の研究室に通い、また自分でどんどん勉強を始めている。
 「君の力が試験で測られているうちは、真の学問ではない」、こんな言葉にいたく共感し、TOEIC900点、国連英検A級など主要な資格はその過程でとっていった(英検1級は惜しくも未だ取れていないが(笑))。
 自発的にあえて自分を学問へと走らせるのは、瞬間的には確かにツライ。しかし、その過程で得られる力、可能性は大変な魅力であり、こうした状況を先程も「ランナーズハイ」と称した通りである。もちろんその基礎力は、あの受験で培われた事は言うまでも無いが。 

 こうして再び一人自分磨きに励むからこそ、僕にとって大学に入学した事にもう一つ大きな意味がある。
 その意味を与えてくれたのは、心から尊敬できる仲間達だ。
 自分ももっともっと頑張らなきゃいけない、そういつでもアツくさせてくれる仲間たち。彼らは僕の一番の宝物だし、こうした最高の環境は、この大学に入学しなければ得られなかったものだと強く感じている。
 (もちろん神戸でも素晴らしい学生もいたのだろうが、僕自身がまだ受験勉強という努力レベル程度で苦戦していた。これでは話も釣り合わない。)
 
新入生時、もはや強制がなくなるとどの学生もこぞって勉強を止め、遊び狂ってしまう。これは人間だもの、仕方ない。
ただし1年から2年が経った時、「充電期間はもう終わり」とケジメをつけ、次の目標を自ら設定し再び走り出す学生がいる。そう、また自分自身だけの戦い、成長を志すのが彼らであり、僕にとってこうした友は貴重であり、また互いに切磋琢磨しあえる大切な存在だった。この時僕は初めて、受験勉強しまくりこうした大学に入学してきてよかったと思えた。
 つまり同じ大学に籍を置いていても、長期でみればやはり様々な学生がいる。現状に満足か、さらに上を狙うか。どっちが良いか、正しいか、人それぞれなのは自明だが、僕はやはりいつまでも成長目指していく姿に共感し、感動する。


 最後に、「偏差値70から大学受験」という腐ったドラマを、やはりこの言葉をもって終わりにしたい。
 
 人生はどこまでいっても階段である、と。 
 
 でっかい夢を目指すなら、自分自身もっと高みへと駆け上がりたいなら、
そこには必ず苦しみに耐え、頑張る事が要求されてくる。
 だからこそ目標をしっかりと見据え、努力を怠らないという「実行力」こそが、一番大切だとあの時強く感じた。
 そして4年経って、その感覚は真理であるとまで今では信じている。
 
 しかしここで一番大切なのは、そうした「実行力」は一朝一夕では身に付かないという事だ。
 ある朝起きたら突然何でも出来る様になっていた、なんて事は絶対無い。
 地道な努力を抜いて理想の自分になれる、なんて事は絶対無い。
 
 僕の貴重な仲間に、公認会計士、司法試験、はたまた大学院へ学問のプロを目指して、日々見習うべき努力に励むヤツらがいる。勉強だけじゃない。演劇や音楽の道に熱中し、真似できない頑張りを見せてくれるヤツらがいる。
 「どうしてそこまでやれるのか」、そう問いかけたとき、
 彼らには共通して、今までも何かに打ち込んできた経緯が必ずある。
 それが受験であったり、スポーツであったり、ともかく必死に何かを追いかけて、自らの「実行力」を着々と磨き上げてきた過程がある。
 
 
 人はいつか果てしなく大きな夢を見る時がやってくる。その時に必要なことは、その高みを明確に捉え、惜しみなく努力を注ぎこめる「実行力」。
 僕は階段を一歩ずつ歩みながら、日々「実行力」をまずは磨きたい。努力しているなら、上を目指しているなら、その時間は決して無駄じゃない、それだけは少しずつ分かってきた。「楽した方がいいよ、過程なんて関係ない」「結果こそが一番大事」、こんな言葉がいかにくだらないか。ようやく分かってきた。
 夢の基準は結局全部自分の中にあったんだ。
 
 
 
 まだまだ止まるには早すぎる。前を向けば道がある。
 ドラマはいつでもこの手で起こせるもの。チャンスは誰にでもある。
 
 図々しく、こんな僕がどこまでいけるのか、とことんやってみようかと思います。
 それではここらへんで、
みなさんとはひとまずお別れですね。 
 
 お互い夢を追いかける時間は苦しいですが、
 その「苦しみ」を「快感」と感じるようになってしまっては、もはや病気ですか(笑)
 どうか、みなさんもお元気で。
 いつかどこかで、会えたらいいですね。
 
 極限まで腐敗し、何よりも誰よりも人間くさい、
 そんな一つのドラマをここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
 
 さようなら。
 そして未来へ。




2004年8月 作者 サイトウでした。

偏差値70からの大学受験 シンジさんたちのその後

シンジさんのその後

経歴:神戸大学夜間脱出
東北大学法学部編入
卒業後、「通訳」をこなすかたわら
国際公務員」を目指して受験勉強中

 あのドラマを狂った方向に大きく導いたのは、言うまでもなくこの男。私自身も「師」と仰ぐ彼の自虐的な生き方は、あれから3年が過ぎ去った今では、もはやカリスマの領域に。ただし栄養失調で死んではいない。
「組織に入ると所詮煩わしい人間関係に悩まされることになる。どんな場所にいても、いつでも強気でいられるように、確固たる自分自身の力が欲しい。」こう言い放ち、彼は「学歴」が唯一有効である、「一流会社」への就職活動を一切行わなかった。あれだけあこがれて、そしてようやく手に入れた「学歴」を、いとも簡単に捨ててみせたのである。
「学歴は学生生活、もしくは20代を楽しく過ごす、一つの要素に過ぎないですね。とりあげられたらそこには何も残りませんし。もちろん無いよりあった方がいい。それくらいのもんでした。実際手に入れてみたら。」彼は私にこう繰り返したのだった。
 東北大学に入学後、法律を勉強する傍ら、英語の勉強を脅威のペースでヤリまくり、確固たる「英語力」という武器を身につけた。ちなみにTOEICは885点、国連英検A級取得。受験で培った努力は、こうして彼を次の段階へと押し上げたのだった。
今では得意の英語力を活かし「通訳」をこなしつつ、さらなる高み、「国際公務員」を目指して勉強中である。その先の目標は、「世界」をその身で実際に触れ合い、そして動かしていくことである。
彼のその後を見ると、僕はこう確信する。
やはり人生は階段であった、と。彼は突然「天才」になったのではない。受験合格⇒英語神レベル到達⇒国際公務員受験と、確実に上へと駆け上がっただけなのである。「でかい事やりたい」って誰もが考えているだろう。しかしそんな「でかい事」を成し遂げるんだったら、毎日地道に努力しなければならないのだ。「階段」を一歩一歩登らねばならないのである。
逆に言えば、「努力」さえ怠らねば、必ず上へと進める。周りの人間を批判し、不具合を社会のせいにしてばかり。そんな事をしている場合ではないのだ、結局人生は全て「自分自身」にかかっているのである。
今のシンジさんの活躍する場所は、もはや「学歴」はあって当然の領域である。話題の一つにしかならない程度のものだ。ただし注意して欲しい。だからといって「学歴」はくだらない、と言っているのではないのだ。「努力」「精神」を磨き、自分自身を高めるためには、「受験」を避けては通れないのである。
最後に彼のメッセージを記し、終わりとしたい。
「社会」で一流になるには、「受験」での数倍の努力が必要となる。だから「学歴」だけで終わり、「社会」では使えない者も出てくるだろう。それが世に言う「学歴批判」だ。しかし「受験」程度の努力が出来ず、鍛錬を否定し続けた者が、「社会」で一流になることだけは絶対にありえない。これだけは「真実」だと思う。


バクダンのその後

経歴:神戸大学夜間卒業
某大手スーパーチェーン内定

 「夜間クサイ」と侮辱され、彼はそのショックにしばらくは口も聞けなかった。
あの傑作なエピソードから早4年。彼はその後まさに「出来すぎ」の人生コースをたどる。「夜間はいやだ」「やっぱり好きだ」、まるでピンポン玉のようにコロコロ意見を変え、悩んでいるうちに嫌な勉強に一切手が回らず、気付けばお決まりの形で4年間夜間在籍。「自分の人生って何だろう」、考えてばかりで何の行動も起こさなかったらしい。バイト先のスーパーチェーンにそのまま内定ゲット。就職活動も、本気だったのかどうかさえ不明。
後日談だが、彼は「編入は受けない」と言いながら、シンジさんと同じ東北大学をコソコソ受験していたらしい。わざわざ神戸から東北まで。何か憎めない、そんな陽気な彼であった。

偏差値70からの大学受験 あとがき

あとがき

 学歴社会ほど、人に優しい社会はない

 この「ドラマ」を通して、どうしても伝えたかった事がある。それは「学歴社会ほど、人に優しい社会はないのではないか」という事だ。
 「死を決意しなければならなかったじゃないか、受験なんて恐ろしいものだ」、そう感想を抱いた読者の方は多いかもしれない。しかし僕は、そのさらに一歩先にある事を伝えたいのである。

 世間では「学歴とはひどいもの」、とよくバッシングされる。しかし本当にそうなのか。 学歴社会ではその「学歴」でしか人は判断されない。上に這い上がるには、良い大学に行かねならない「プレッシャ-」がある。しかしそのチャンスは何回もある。浪人は何度でもできるし、一般より偏差値の低い、「編入」という手段まである。
 つまり中学入試、高校入試、大学入試、浪人、編入、大学院入試と実に6回もやり直せる機会がある。その気になれば、大学なんて社会に出てからも受験できる。「社会人枠」なるものもある。
 そしてこの「ドラマ」を見て、分かってもらえただろう。「受験」は勉強し続ければ必ず合格する。誰もが勝利を手にできる。
 運命を引っ繰り返す、もしくは自分自身を変える位の勝負を挑むとき、チャンスが何回もある、「受験」というフィ-ルドで僕は本当に良かった。2浪目は編入を入れて、7回もの試験があった。もし一発勝負なら、慶応のSFC失敗で僕は、完全な敗者になっていたはずである。
 最終的に僕のドラマとは、実は「失敗の許された勝負」だった。「失敗があってこその勝負」だったのだ。
 世の中はサバイバルだ。人間全員に「差」が生まれる。その「差」を決めるものが、もし「学歴」じゃなかったらどうなるか。
 その明らかな例がスポ-ツだ。誰もがイチロ-と同じ練習量を積めば、彼と同じ様な野球の実力を身に付け、メジャ-リ-グで活躍できるのか。そうじゃない。「努力」を超えた、「才能」で勝負が決まってしまう。「差」が努力だけでは決まらない。選ばれたものしか「勝利」を手に出来ない。これほどの「絶望」はないだろう。
 「学歴」に「個性」はない、だからこそ素晴らしいと思う。誰もが努力すれば必ず手にできるからだ。何て人に優しいんだろうか。「偏差値じゃない」、こんな甘い言い訳があるから話がおかしくなり、「何で勉強するか」という命題の意味が、分からなくなってしまうのだろう。
 どんな場所にいる人にでも言える。中学生、高校生、大学生、社会人、今居るその場所に、本当に満足しているのかという事だ。正直になって、本当の自分を見つけだそう。そうすれば全て楽になれる。
 もしまた走り出す人がいたら、是非ともこの「ドラマ」を力に変えてほしい。「こんな悲惨な話があるんだ、自分はマダましか」、こう感じてくれたとき、この「ドラマ」はあなたを初めて大きく揺り動かす。必ず加速させてくれる。

 僕のこの人生は一度きり。自分は輝いていたい。だけど現実には、他人との否定できない「差」が生まれる。安堵に落ち着けない。いつまでも走り続けさせる。恐くて恐くてしょうがない。「僕は一体何者なんだ」、そう毎日毎日、怯えていた。
 そんな時、探し続けた本当の「自分」が、僕の目の前に現れた。
 
 「いくらでも失敗していいよ、君はやり直せるんだから」
 
 それは初めて僕に差し伸べられた、「救いの手」だったのかもしれない。 

偏差値70からの大学受験 受験本番編

11、最後の戦い、受験本番!



 試験前日、僕は興奮してなかなか寝つけず、ようやく眠りについたのは、明け方に近かった。そんな浅い眠りの中で、僕はこんな夢を見た。
 時は大阪外国語大学合格者発表日、合格したのだ。
 「去年は絶対に自分の番号はなかった!しかし今は目の前にある!夜間から出られる!」 ここで目が覚めた。
 しかし目覚めてもまだ、その興奮がおさまらなかった。心臓が高鳴っている。去年のあの不合格は、僕の心に強く面影を残していた。「抜け出せる」という事が、「自分には有り得ない」というイメ-ジでしかない。不吉な予感が、大きく膨らんでいく。
 「夜間脱出」、これが夢にも近い憧れとして遠のいていった。

 試験会場である「大阪外国語大学」は山の中にある、素晴らしい大学だった。2年前からは考えられない場所に、僕は立った。教室に入ると、女の子ばかりだったが、全部で100人以上はいただろうか。
 しかし僕は全員誰もライバルだとは思わなかった。
 敵は自分だ。この自分なのだ。もう、どうなるか分からない。この偏差値80の力を、全て時の流れに任せた。 
 この手で全てが変わる、不可能なことなど何もない。そう叫び続けたドラマの最後だった。

 試験は会心の出来に終わる。
 1時間目の英語では長文の記述と英作文。どちらも今の僕には問題なかった。悩むことは何もない。まずは完璧だろう。
 2時間目の論文では、試験時間60分で「世界のグロ-バル化について、自分の意見を1000字で論述せよ」というものだった。これも「東大対策」で論文訓練は完璧にしていた。結果、「これ以上はない」という論文を書き付けたのだ。
 パ-フェクト、しかしそれでも僕は安心などしていなかった。
 「会心の出来」と言うが、去年の受験もそうだった。あの時も悔いはない勝負だったはずだろう。どうすればいいんだ、と悩みに悩んだこの戦いだ。まだ「絶対」など有り得ない。


12、12月。悲劇は終わるのか!?涙に浸る屈辱の12月10日!



 外語大の試験が終わった11月末、僕達は最悪のスタ-トを迎える事になる。同志であるシンジさんが立て続けに落ちたのだ。
 大阪大学京都大学不合格。成績的に「必ず受かる」という、神戸大学法学部まで連続不合格。僕はその結果が信じられなかった。彼は絶対合格のラインにいた人間だ。この戦いは、やはり呪われているのだろうか、僕達はそう考えるしかなかった。
しかしここまでだった。この「不運」にも彼はついに勝ってみせる。そう、ここから勝利の日が始まるのだ。
 その2、3日後の事だった。

 「東北大学に受かりました!」電話で叫ぶシンジさん。これが、彼のドラマの終わりだった。
 やはり勉強し続ける事なのだろう。力があれば、必ず受かるのだ。
 僕は喜んだ。本当に嬉しかった。今年は合格にふさわしい友が、合格した。妬みなどあるはずもない。だからこそ次は僕の番なのだ。その時から、僕の合格発表まで1週間。シンジ、カズヤが合格した今、ついに僕は最後の一人となった。

 合格発表前日、12月10日のことだった。僕はこの日を忘れない。
 いつもの様に大学の授業に形だけ出て、一番後ろに座り、受験勉強をする。
 僕を避けるように、前のほうでIQやイガ、ヒルマが座っていた。そして見渡せば、大教室が100人近くの夜間生で埋まっている。

 僕は何でこんなところにいるんだろう。

 そんな夜間生の姿を見ながら、心の中でつぶやいた。
 偏差値80を取った。夜間全員の誰よりも、偏差値は高い。僕は一番努力、苦労している人間だ。しかし最後の最後まで残ったのは、紛れもない僕自身だった。僕は世間から見れば、この夜間生なのだ。どんなに頑張ろうが関係ない。「クサイ」と評されても文句は言えない。
 僕は帰り道の途中で、立ち止まった。
 いつもの様に、美しい神戸の夜景が広がっている。2年間眺め続けた、変わりない景色だ。そう、いつまでも変わらないのだ。
 僕は一人で泣いていた。
 限界だったのだ。実力を上げれば上げるだけ、強がりは増した。しかしその裏で、空しさも募っていったのだ。何でここまでやらなきゃならないのか。
 僕は初めて弱音を吐いた。そうしたら、その切なさ耐えられなくなっていた。涙を流したのは、あのカズヤの合格以来のことだった。
 
 家に帰ると、英検準1級の面接試験合否通知が届いていた。面接は普通、9割は合格する。落ちるはずのないその結果は、以下の通りだった。
 合格点23点中、僕は22点。
 あと1点だった。不合格。
 僕を支えるものは、もう何も無かった。


13、勝利



 かすむ意識の中、僕は合格掲示板を見た。
 最難関の「地域文化学科英語」の合格者は、40人近く受けてわずか3名。見た瞬間分かった。
 「あるわ!」
 僕はその場に崩れ落ちた。
 掲示板に自分の番号はないもんだ、こう慣れきっていた。落ち続けた僕は、もう何も信じられなくなっていた。
 しかし今は違う!僕の番号が、目の前にあるのだ!見事完全合格だった。
 思えば当然だった。偏差値80の受験生だ。実際、落ちるはずがない。しかしそんな余裕、僕には無かった。とにかく嬉しかった。異常なまでの派手なその喜び方に、外大生の奇異の視線を思わず集める。僕は狂喜の中にいた。人生が大きく動いていく実感がわいた。
 もう僕は夜間生ではないのだ。偏差値70の大阪外語生なのだ。楽しいキャンパスライフはここから始まる、そう僕は自分に言い聞かせた。目の前がバラ色とはこの事だろうか。 「夜間から抜け出した」
 僕はついにやり遂げたのだ。
 喜びに打ち震える手で、僕は友人達に電話しまくっていた。結果を出した今、ようやく胸を張れる。
 「まだやってたんだ、オマエもよくやるな。まあお疲れさま」
 みんなは呆れながらも、口々にこうほめてくれた。屈辱に耐え切れず、友達と会う事はもちろん、その声さえ聞きたくなかった9カ月前。思えば本当に長い戦いだった。
 
 シンジさんは食堂で、僕の凱旋を迎えてくれた。
 「やりましたね!やりましたね!」
 満面の笑みを浮かべながら、僕達は大声で叫んでいた。
 夜間の連中は、僕の結果を今か今かと待ち望んでいる。「落ちてくれ、落ちろ!」こう切願しているに違いない。
 「行ってやるか」
 僕達が勝者になる瞬間だった。

 クラスに入ると、誰にも聞こえる大声で、「受かった、受かった!夜間脱出成功!」と叫び散らした。僕はすぐさま、IQ、イガ、ヒルマの顔を見る。
 いつもの嫌らしい笑顔はなかった。悔しさと妬みで、顔が歪んでいるのだ。僕ははっと気付き、クラス全員を見回した。そう誰もがこちらを見つめ、顔を引きつらせている。
 僕はためらわなかった。容赦など、どこにもない。
 「来年の4月から、僕は大阪外語大生。英語学科、偏差値70です!」、そう言い放って教室を出た。
 
 次の日、模試事件を上回る800枚もの大量のビラが、神戸大学中に再び貼り出された。 真っ黒な下地に、白色の派手な文字。その風体は、模擬試験ビラと同じだ。しかしその内容は、模試を超える衝撃度だった。
 「たかが模擬試験、受かってから言えよ、偏差値80なんてすごくない」
 数々のご批判ありがとう。だからその通り本当の大学に、受かってやったぞ!僕の魂の叫びが、神戸大学中にこだまする。
 「大阪外語大学、地域文化英語学科(偏差値70)合格!夜間生が勝利!」 こんな見出しだった。またも大学中がパニックになった事は、言うまでもないだろう。
 夜間生にもう敵はいなくなった。「やられたら、100倍にして返す。それが斎藤だ」、この意味に彼らがようやく気付いた。しかし時すでに遅し。彼らは卑屈に黙るしかないのだ。ただ僕も優しい。「合格したよ」それ以上の攻撃はしなかった。必要以上の自慢に酔ったりはしない。しかし彼らにとって、その一言でも十分なブロ-となって、叩き込まれていたのだ。
 僕達の勝利の日だった。
 サ-クルでも僕は誉めたたえられた。つい数ヶ月前までは僕をバカにしていた女の子も、「やっぱり頭がいいんだね」と、笑みのない引きつった顔で、しきりにかつぎあげてくれる。
 「連中と並んだ」、僕は確かな手応えを感じていた。
 「夜間を抜け出した。合格した」この心からの願いが満いたされた今、僕は全てが報われた。人生最高の充実の中にいた。
 「ウソじゃないよな?夢じゃないよな?」
 まさに非現実である。


14、そして奇跡の大逆転!!



 20世紀の終わりが迫る、12月末の事だった。
 大阪外大の勢いに乗って、一般入試も全部合格してやる、こう心に決めていた。外大の合格という「確実な保険」は、そんな受験を続ける僕を、楽にしてくれていた。外大合格があるか、ないかでは話が全然違う。肩の力が抜け、余裕が生まれた。
 そんな中、外語大学から一通の手紙が来る。
 これが運命を狂わせる、全ての始まりだった。
 「入学おめでとうございます」こんな祝電の様な内容だったが、僕はある箇所にはっと目を止めた。それは入学条件である、「単位数」であった。
 1年生編入では入学条件で32単位必要である。普通の昼間の大学生にとっては、難なくクリア出来る楽な単位数だ。
 ところが「夜間」では話が違う。
 夜しか授業のない夜間では、一年間に最高で32単位ギリギリしか取れないのである。そうなると、僕は最高単位数を取らなければならない。
 普通の昼間の大学なら50単位ほど登録して、その中から32単位とればよい。余裕である。ところが夜間は32単位しか登録できない。全部取らないと32単位という条件は満たせない。
「夜間」、この言葉がまた僕をしめつける。
 フルで単位を稼ぐためには、しっかりと腰を据えて勉強をしないと難しいもの。ただ受験勉強を続ける僕にとって、果たしてそれは良い事なのだろうか、こんな疑問が生まれた。
 編入受験当初、僕は「単位数」について軽くしか考えていなかった。そんな事より、まず試験に合格することだ、と自分に言い聞かせていたからだ。編入受験生なら誰でもそうだろう。「単位」など心配にも及ばない些細な問題だ。
 ただ「夜間」では話が違ったのだ。
 単位を取るために、受験勉強をやりながら、大学の勉強もやればいいじゃないか、と思った事もあった。
 しかし正直になれば、それが決して良い事とは言えないだろう。これから僕はさらなる高みに向けて、どんどんペ-スを上げていかねばならない。その先には「早稲田慶応」、そして「東大」が待っている。大学の勉強している少しの暇があったら、もっともっと受験勉強をしなければならないのではないか。
 
 また続いてその手紙には、こう書いてあった。
 「入学金30万は、1月25日までにお納めください」
 2月の一般入試も受験するんです、お金はそれまで待ってくださいなんて、都合の良い事は通じない。このまま受験を続けるための保険にしては、30万は高すぎる金額であろう。
 今、入学金30万円払うなら、受験を断念して大学の勉強に集中し、大阪外大に確実に行かないと筋が通らない。また、もし外大よりさらに良い大学を狙うなら、外大を捨てて受験勉強に専念しなければならない。
 受験も外大どっちも両方など、「妥協」は出来ない。やるんだったら、どちらか一つという状況に追い込まれてきた。
 最高の幸せから一転、思いも寄らずに事態が一変した。
 「ここでやめるか」
 僕はふとそう思った。ここまでよく頑張った。偏差値80まで上げてきた。今の大阪外語大学でも十分素晴らしい大学だ。胸を張って自分を紹介できる。「大阪外語大学生です、偏差値70です」と文句ない。説得力を持って夢を語れる。
 ある意味「保険」が出来た事で、僕の意志は弱くなっていた。受験勉強も常に限界のラインにいる。いつでも投げ出したい思いで一杯だ。
 毎日悩み続けた、そんな時だった。
 僕の話を聞いていたシンジさんが、一言こう言った。

 「今ならいけるんじゃないでしょうか」

 今思えば、この一言が僕の運命を変えた。
 彼はこう続ける。「斎藤サンは偏差値80まで来ました。そして難なく大阪外語まで手に入れましたよ。だから今ならいけます。東大や早稲田慶応も確実にいけますよ。日本の頂点が、今目の前に見えているんですよ!」
 僕は全身に衝撃が走り、答えが決まった。
 今、自分が立っているその位置は、とんでもないところだったのだ。目の前には「早稲田慶応」だけではない、頂点である「東京大学」までもがある。「夜間」脱出を願い、ブランドに憧れ続けて、ここまで来た。がむしゃらに走っていたら、気付けばどこの大学でも合格出来る力が付いていたのだ。
 「今ならいける」この言葉が全てだった。僕は大阪外語大学という最後のトリデを捨てた。
僕は「妥協」だけはしたくなかった。変な言い訳をして、これからの一般入試の戦いを汚したくはなかった。そう去年は心に決めていたはずだ。「偏差値の高い大学に行って、ほめられたい」、そんな僕の思いは、何一つ迷いや虚飾も無い。だからこそ、そんな純粋さが僕を極限まで追い込んだのだ。
 「奇跡」だった。
 誰もが受験が終わったと思った。僕でさえも一応のケリをつけたつもりだった。しかし、何一つ終わってなどいなかったのである。
 大阪外語大合格は消えた。そして僕には何も無くなった。
「夜間」ゆえに僕はブランドに執心し、ここまでやって来た。だが最後はその「夜間」が、「単位数」という些細な条件をこじ開けて、重くのしかかってきた。始まりも終わりも、やはり「夜間」だったのだ。
 僕はこの奇跡に、悔しさと恐怖を感じながら打ち震えていた。
 自分で決めたことだ。文句は言えない。しかしそんなことを言っているのではない。なんでこんなにツイていないのか、という事だ。確実になったはずの「夜間脱出」。しかし奇跡が起きた。やはり叶わなかった。

 12月28日を最後に大学は、1月終わりから2月初めの試験週間まで冬季休業に入る。その最後の授業日、僕は大学に向かった。クラスの連中に会うためだ。
 僕は最初に会ったIQに、一言だけ伝えた。
 これが最後の宣戦布告だった。

 「大阪外語大学には行かない。もうここの夜間の授業にも出ない。一般入試で東大に行くためだ。」

 彼の顔は満面の笑みに変わった。僕はこの瞬間を忘れない。
 「信じられないね、合格出来たのにね」、彼は同情しながらも顔は笑顔だった。
 当然のことながら、一気にその情報はクラス中に広まった。
 誰もが息を吹き返した様に元気になり、勝敗の立場が逆転した。「まだやるのか、受からないよ」と繰り返される。
 別れ際に、彼らはこう言った。
 「来年僕らは編入するから。ここには京大を狙うヤツもいるんだよ」
 夜間にもオマエと同じくらい頭イイ奴もいるんだ、あまり馬鹿にするなよ。オマエは仲間じゃない、勝手にやれ。そういう彼らからの決別のメッセ-ジだった。
 確かに僕はそれだけのことを、やってしまった。
 模擬試験のビラをばらまいたり、合格証明書まで貼りだした。自分の思いを伝えるためだけなら、「真実」をこれでもかと叫んだ。これは夜間の連中にとって、やはり「不快」の何ものでもなかったのだろう。
 「偏差値低いからクサい、こう言われても文句言えないよ、社会は厳しい」こんな事分かっていても、彼らにとって目をつぶっていたい話なのだ。それなのにワザワザ僕が傷口に塩を塗る。余計なお世話だ。
 「自分で勝手にやれ」これが彼らの正直な声なのだろう。だから夜間全員が敵になった。こんな状況に追い込まれた。
 「もう、ここに戻ってくる訳には行かない」
 自分で落ちた時の事を考えた。
 「あいつ帰ってきたよ・・・」、偏差値80の自分が、夜間のクラス全員に蔑まれている。耐えられない。そして何より次の目標は何だ?2年生編入か?もうイヤだ。勉強なんかしたくない。
 大阪外語大の時も「これが最後だ」と感じた。でもあの時は、その後一般入試もあった。しかし今回は本当に「最後」だ。もうこれを逃したら、2度とチャンスはない。
 「落ちたらどうする?」
 そう自分で自分に問いかけた。すると自然と、心から答えが返ってきた。

 「死ぬか・・・」

 迷いなど、どこにもなかった。この受験が僕の人生最後の勝負になった。
 大げさに言うのではない。こんなに勉強し続けた。自分の全てをこの受験にかけた。その間にはいろいろな事があった。カズヤもいた。シンジもいた。80まで数字を上げた。そして自分だけが落ちる・・・。
 僕は当初、「絶対に落ちることのない受験」を目指していた。
 皮肉だ。ここにきて、僕はついに絶対に「落ちる」ことは無くなった。そう、落ちたら僕の人生はそこで終わるからだ。究極の結論だった。
よく「受験なんかで落ちて、死ぬなんてバカだ」と本で書かれている。しかしそうだろうか。本気で受験に打ち込んだ、そして人生をかけた。それが何でダメなのか。もちろん「自殺」なんてタブ-だ。しかし本気で何かをやり遂げる時、勉強でも何でもそれだけの強い意志が必要なのではないか。
 シンジさんは僕の行動を止めはしなかった。「そうですか・・・」彼は頷いただけだった。当然だろう。この僕の2年間を全て知っているからだ。
 彼は僕の決意を分かってくれた。そして「必ず受かります」そう繰り返した。

 その3日後の、12月30日。2年間家で共に暮らしたネコの調子が急変する。そのまま病院に担ぎ込んだが、「結石」という病気が悪化していた。受験生という余裕の無さ故に、僕は彼の病気の前兆を捉えられないでいたのだ。全て自分のせいだった。
 ペット以上の想いを寄せたネコが、亡くなった。彼は僕の顔を見つめながら、静かに息を引き取っていった。
 最後に残されたのはやはり僕一人だった。
 だが「孤独」という感情はもう忘れていた。「生きる」ためには「合格」しかない。もう戻る場所もない。進むしか道はないのだ。


15、2001年1月。最後の戦い!決戦の舞台が決まる!



 年が明けた。21世紀の幕開けであった。

 実際この頃になると、「英語」もほぼ完成の領域に入っていた。
 SFCの問題でも9割は確実に取れていた。英語検定準1級レベルまでの単語は、完璧に暗記していたので、まず分からない語句はほとんどない。英語でも日本語でも関係なく、難易度の高い文章が読めるようになっていた。
 編入界から受験界へと復帰し、12月31日に受けた「慶応大学SFCプレ試験」では、思うような出来でないにしても、100点中88点。全国で8位にランクされた。上位ランク者はほぼ帰国子女なのだろうが、僕はそれでも負ける気はしなかった。
 その模試での偏差値は70だった。一般の全国模試に直すと、大体偏差値80超えたラインに相当する。僕は6月に立てた目標、英80、国80、数70後半、公民60後半を最後の最後で達成したのだった。
 迷うことはない。僕の受験はさらに加速する。「ここまで来たから安心」などという気持ちは、これっぽっちも無かった。
 僕にとって、完全合格して夜間を抜けだす事は、奇跡を超えたさらなる領域である。「どこでもいい」僕は合格したかった。余裕など微塵もない。むさぼるように勉強を繰り返した。
 「落ちたら最後」、この言葉が毎日僕の脳裏によぎる。
 僕はついに親に全てを打ち明けた。
 「今年もう一度大学を受ける。お金なら必ず返す。一生のお願いだ。受験させてくれ」、僕の悲痛に満ちた声だった。親は動揺を隠せなかったが、これだけの成績を見せられたら誰も「やめろ」とは言えない。受験を許してくれた。
 もしそれでもお金を出してくれないのなら、サラ金から借りてきてでも受験するつもりだった。今思えば馬鹿馬鹿しいかもしれないが、当時の僕は、それだけ危機迫る状況だったのだ。
受験大学を決めた。「やりたいことで学部を選びなさい、偏差値じゃないんだよ」、こういう世の風潮に対する、最後にして最大の反抗だった。
 「勉強なんか大嫌い。どこでもいいから、ブランドが欲しい!」
 第一希望は東大文学部の後期試験。
 そこからは何でもありだ。文学部から、経済、法、商、外国語など文系完全制覇!「オマエは一体何が勉強したいんだ?
 早稲田政治経済学部(偏差値3教科67)、早稲田法学部(偏差値3教科66)、早稲田商学部(偏差値3教科65)。慶応大学総合政策学部(偏差値英語1教科70)まで受験。
 そして国立前期が空くので、東大ステップのために、日本で一番難しい英語入試と言われる「東京外国語大学、英語学科」(偏差値71)の受験を決めた。ここ合格すれば、大阪外語大との「日本2大トップ外大完全合格」が実現することになる。
 未だロ-マ字発音、全然英語が聞けない喋れない、しかし問題だけは完璧に解ける「受験マシ-ン」の、最高のパフォ-マンスである。「吐くほど頑張れば、それでも合格するんだ!」相変わらず僕はそう叫んでいた。
 計6校。これが僕の最後の舞台だった。これで落ちたら、もう僕には「受験」は不可能な領域である。
 こんな惨めな人生があるだろうか、僕は何度も自分に問いかける。
 すると自然と机に向かえる。この時はもう無心だった。何も見えなかった。「失敗してもやり直せるさ」、こんな逃げ道は無い。だから極限のレベルまで自分を追い込んだ。
 
 そんな中、国立大学一次試験である「センタ-試験」の受験表が届いた。戦いの緒戦はどこから始まるのか。
 僕はその試験会場に目を疑った。とんでもない名が僕を凍らせる。そう、そこにはこう記されていた。
 「試験会場、神戸大学」、と。
 僕に与えられた最後の舞台は、あの「神戸大学」だったのだ。今までの2年間、ここが全ての舞台だった。この地で様々なことを思い、苦しみ、「抜け出してやる」そう決意した。そしてようやくたどり着いた。その終幕の場所が「神戸大学」だった。
 何もかもが出来過ぎだった。
 ふと、これまでの戦いを振り返ってみる。1浪目の有り得ない全敗不合格からカズヤの合格、そしてシンジさんとの腐った2浪目、昼間生との偏差値80決戦、模擬試験ビラ、大阪外語大奇跡のキャンセル。考えてみれば「筋書きがあった」としか思えない2年間だった。
 僕はその時、ようやく気付いた。「これはドラマなんだ」と。
 今まで「何でこんなにツイてないんだ」、こう漠然と何度も苦悩した。その答えがここにあったのだ。
 「これはドラマだ、僕は今とんでもないドラマを歩んでいるんだ、日常にないこの加速は、すべてドラマなんだ」
 僕は震えた。
 平和で平凡だった高校時代が懐かしかった。毎日友達とバカやって笑っていたあの頃にはもう戻れない。今、自分は抜け出せないドラマの中にいた。


16、雪舞う神戸大キャンパス!運命のセンタ-試験が始まる!



 センタ-試験決戦日。僕はいつもの見慣れたキャンパスに立った。「神戸大学」、これが僕の前に立ちはだかった。しかし今日はどことなく、いつもと違う様に僕の目には映る。 「最後の最後までここか」、僕は受験票を握り締めていた。
 雪が降ってきた。
 僕は凍るような寒さの中、大学を睨みつける。
 「そうか、分かったよ、とことんやろうじゃないか!戦いだ!命を懸けた戦いだ!」
 誰に挑む戦いなのか。敵は大学か?夜間か?クラスの連中か?いや、違う。今の僕にはそんなものどうだっていい。
 僕がこれから挑み、そして今まで挑み続けてきたのは、他でもない「自分自身の運命」だった。「夜間」だ、「コンプレックス」だ何だ言ってきたが、それは全て自分の「運命」への挑戦に過ぎなかった。
 「自分なんかダメだ・・・」、運命に白旗を揚げれば全てが楽に慣れた。
 ただこの運命は、僕に余計にチョッカイを出し過ぎた。これでもかと、僕に「ドラマ」という不幸を押しつけてきた。それはヤリ過ぎだった。
 だから僕は戦う。「負け」はない。最後まで決着をつけてやる。運命とは何だ、自分とは一体何なんだ、地獄の底まで食らいついて、とことん見極めてやる。
 命を捨てた、その時の僕は原点だった。
 2年間かけて追いかけていたものは、紛れもない「自分自身」だったのだ。


 結果は合格ラインである、4教科90%を超えた。国語は「漢文」で手こずったものの、英語、数学では190点ラインをクリア。これで東大の1次試験は難なくパス。僕は倍率15倍から5倍へと進んだ。
 あくまでセンタ-は前夜祭みたいなものだ。こんな所でくじける訳にはいかない。僕の加速は誰にも止められないのだ。
 そして2月がやってくる。勝負を決する月である。ドラマはクライマックスへと走り出した。



17、2月。最後の涙!「こんな人生なら、もうやめだ・・・」、
思いも寄らない最悪のスタ-ト!



 入試直前まで家にこもって勉強し続けた2月19日。夕方に僕は神戸を出発した。
 「ここには二度と帰ってこられない」、そう噛み締めると僕は新幹線に乗り込んだ。車窓の景色は暗闇に包まれていた。

 東京の実家に着き、早めの床に就く。
 僕の心臓が高鳴っている。明日から連続で4日間、試験が続く。最後の勝負だ。最初の一発目は慶応大学のSFC。過去問題では確実に9割以上は取れる。「分からない」なんて事はまずない。受験者対象の模試では8位。シンジさんが繰り返した。「その成績は神の領域だ」と。
 受験は確かに運もある。成績の思わしくない奴が、奇跡で受かったり、逆に確実と思われていた奴が落ちたりもする。しかし絶対に受かる「神の領域」があるというのだ。それは志望の大学の全受験希望者のうち、成績最上位10名の者を指す。この聖域は「運」など作用しない。
 2年前僕が普通の高校生だった頃、模試の成績ランクに上位10名に記されている優等生を見ては、「こいつらは良いよな、落ちることなんてないもんな」と羨ましがっていた。また、どうやればそんな所に行けるのかさえ分からなかった。
 その「神の領域」に立って、僕は初めて気付いた。不安で不安でたまらないのだ。やればやる程、力が付けば付く程、僕は不安の極致に追い込まれた。
 いくら僕でも、3教科の早稲田ならベスト10などには入る力はない。3教科全部80オ-バ-のツワモノだっているはずだ。上には上がいるんだ。
 しかし明日のSFCは英語と小論文。同じ方式で、ここより偏差値の高い、大阪外語大には受かっている。正直僕にとって、一番受かる確率がある学部だ。少なくともベスト10には入る自信がある。だからこそ明日決めなくては、「受験全滅」を意味していた。
 「良かれ」と思って、SFCを最初にもってきた。今までの成績が僕を勇気づけると思っていた。ところが事態は全然違った。逆に僕は緊張に呑み込まれた。
 一晩中、2年間の苦しみがよみがえり、落ちたときの命を奪われる恐怖が、僕を押しつぶした。睡眠薬を3個も飲んだ。それでも眠れない。眠れればなんでもいいと思い、「カゼ薬」までも大量に飲んだ。「早く寝ないと」、焦れば焦るほど僕はおかしくなっていく。いくら力があっても、究極の集中力を要するSFCの難問だ。万全で挑みたい。
 去年も試験前は緊張した。しかし今年はそれをはるかに上回るパニックだった。「絶対に落ちることのない成績」を取った。しかしその栄光が、逆に重くのしかかる。本当に信じられない皮肉である。
 「何でなんだ、どうしてなんだ」僕は一晩中唸っていた。夜が明けた。結局一睡も出来なかった。
 目は真赤に染まり、叫び続けていたせいで喉も枯れている。「ちきしょう、ちきしょう」僕はそう何度も小声を吐きながら、家を出ていく。何かにとりつかれた様なその格好は、誰が見ても異様だった。
 試験が始まった。そこで僕は、ついに全ての限界を迎える。
 何も考えられない極限の状況の中で、僕は試験用紙の英文を眺める。いつもはスラスラ読めていたが、今日はいくら読んでも頭に入ってこない。神経がもうろうとしている。「落ちる、このままだったら落ちる」、恐怖が最高潮に達したその時だった。
 強烈なめまいがして、世界がぼやけた。そこで全てが終わったのだ。
 トイレにかけこんだ僕は、吐いていた。極度の緊張からくる神経的な症状だった。さらに昨晩の睡眠薬や風邪薬の、過多な摂取も災いしたのだろう。胃が痙攣しているのか、吐き気がいつまでも止まらない。
 実際1月に入ってから、ストレス性の血便が止まらなかった。健康管理はしていたが、神経の方まではどうしようもなかったのだ。体は悲鳴をあげていたのだろう。ここにきて僕はついに、限界に打ちのめされた。

 帰り道、緊張から開放され笑顔がこぼれる受験生の人波の中で、僕は顔をグシャグシャにしながら、泣いていた。結局この日、試験用紙を前に何にも出来なかったのだ。屈辱の何ものでもない。「ここだけは受かる」、その自信が一番のプレッシャ-だった。
 よく受験参考書には、「本番前は誰でも緊張するんだ。だからそんなのには打ち勝て!」といったメッセ-ジが書いてある。「誰でも同じように」というが、本当にそうなんだろうか。それはあまりに厳しすぎる話だ。少なくとも僕は、2年と半年の受験には耐えられた。しかし「本番」というその重圧には、耐えることが出来なかったのだ。
 32カ月の戦いの結末がこれか、何も良いことなんてないのか、そう思えば思う程、本当に惨めだった。
 「こんな人生なら、もうやめだ・・・」家に戻っても、僕は涙を抑え切れなかった。3度目の涙だった。


 しかしこれが最後だった。
 この最後の涙が、もう願うことすら忘れてしまった「勝利」を呼び込むのだった。そう、ラストシ-ンはついにここから始まるのだ。
 「奇跡」が静かに僕に舞い降りた。




18、かかってこい,僕には敵などいないんだ!



 僕は泣いていた。いつまでも泣いていた。「もうどうなってもいい」、そう全てを捨てていた。すると不思議なことに、いつの間にか僕は眠りにおちていた。精神の限界を超え、疲れが波となって押し寄せてきたのだ。何日ぶりか、僕は深い眠りの中にいた。


 翌日の2月21日。早稲田の法学部入学試験。
 その時、僕の体調は完璧だった。
 脳はさえわたり、力に満ちあふれている。昨日、「限界」にまで追いつめた事が、全ての勝因だったのだ。ピ-クを過ぎた僕の精神は、試験のみに集中出来る最高の状態にあった。
 大教室には400人程度の受験生がいたが、敵はやはり自分自身だった。
 「この運命に挑戦してやる、今なら僕を止められないぞ!ドラマは終わりだ!」
 僕は心の中でそう叫ぶと、自分の力を信じた。もう、「運命」は抵抗出来なかった。
 体が万全ならば、やはり問題などどこにも無い。その年は国語が難化したが、僕には関係なかった。完璧に読める、解ける、そんな興奮さえ沸き上がってくる。英語もスラスラ読めて、迷うところはない。「満点近く取らないと受からない」、ここまで歪んだ僕の勝負だったが、この時はそれでも手応えがあった。1年目とは違う、「完璧」という感覚だ。
 22日の政治経済学部、23日の商学部、早稲田3連戦は、僕の能力が思うところなく発揮された。
 25日は国立、東京外国語大学だった。
 SFCより一歩レベルが上回るこの大学の試験は、英語一教科。長文から英作文、要約、そしてヒヤリングと何でもありの、英語に限れば日本最難関だ。日本中から英語を極めた学生が集うという。
 大阪外語大を制したこの僕だ。腕がなる。この頃になると、もうプレッシャ-などどこにもなかった。
 2時間半の試験時間、僕の全てを試験用紙に書き付ける。完璧だった。最高の表現が出来た。大阪外語大をしのぐ出来だった。
 全ての受験を終えた後、僕はすがすがしい気持ちに満ちていく。思いも寄らないことに、それは初めての経験だった。


19、クライマックス!運命が変わる日!



 東大の試験日まで2週間を残す2月28日。早稲田の政経、法学部の合格発表である。 僕は政経のキャンパスのベンチに座り、静かにその審判の時を待っていた。「カズヤも1年間ここで勉強しているんだろうな」、ふとそんな事を考えた時だった。
 僕の周りにいる受験生の群集が、ドッと湧く。そう、合格番号の掲示板を持った職員が、やってきたのだ。合格発表が始まる。周りの受験生、そしてそれを祝おうとする早稲田の応援団。
 「ついにクライマックスか」
 泣きそうになる気持ちを僕は抑えた。-11128-運命を決めるこの番号を確認する。緊張からか、手が震えている。ノドもカラカラだ。しかし今日は負けない。やってやるよ、これが最後の言葉だった。
 僕は前に出た。


-11024-
-11050-
-11053-
-11080-
-11082-
-11128-
-11134-
-11135-

 ・・・・・合格
 「終わった、終わったんだ」、力が一気に抜け、今までの記憶がとんでいく。全ての感情を超えた。それは夢の世界だった。
 ようやく気付いた。冷静に考えられた。これだけ偏差値を上げたんだ、だから受かって当然なんだ、何をそこまで悩んでいたんだ。
 「呪い」の様に苦しみ続けた受験という大命題。勉強している時は、どれだけ難しいんだろう、と悩み続けた。「死」まで覚悟した。しかしそれだけ苦しめば、絶対に手に出来るものだった。すごくも何ともない。努力さえすれば手に入るという、「簡単」なものだった。全てが終わった今、僕は憑き物が取れたように、そう悟った。
 事実これだけ成績があれば、もう落ちることはなかった。あれだけ恋焦がれた「合格」が、次々と僕のもとに舞い込んできた。

 早稲田大学政治経済学部、合格。 
 早稲田大学法学部、合格。
 早稲田大学商学部、合格。
東京外国語大学英語学科、合格。

 「ウソじゃないよな、本当に合格したんだよな」「もう、取り消されるなんてことはないよな」、僕は何回も自分に問いかける。合格した、その事実を受け入れるまでに時間が費やした。信じられなかったのだ。
 狂喜、そして狂喜。僕は叫びながら喜んだ。最後まで僕の姿は格好悪く、人間臭かった。もちろん大学に受かった事も嬉しい。ただ一番僕が嬉しかったのは、「自分自身で自分の運命を変えたこと」だった。「受験」というフィ-ルドをとった。しかし最終的に追い求めたのは「受験」の先にある、「自分自身」だった。だからこれだけドラマがあったんだ。 


20、大団円!



 「受かりましたよ!受かりました!片っ端から合格しました!」
 僕の歓声が響いている。もう誰にも文句は言わせない。完全合格だった。受話器の向こう側のシンジさんは、感激して泣いてくれた。「やりましたね!絶対斎藤サンなら受かると思ってました!」、もう会話にさえならない。
 彼は僕と同じだった。ブランドを得るために、また合格証明書をもらうためだけに、10万円もの旅費をかけて「筑波大学」を2月に受験していた。入学するつもりなんて毛頭無いんだから、全くの無駄である。もう意地であった。
 その筑波にも合格していたシンジさんには、二重の喜びである。彼は僕と電話しながら、もう一台の携帯電話でカズヤにつないだ。電話の向こうでは、僕と話しながらも彼はカズヤに興奮気味に僕達の勝利を伝えている。
 「斎藤サンに代わります!」彼は電話を二つ逆さにくっつけて、僕の声をカズヤに送ろうとした。
 「聞こえますか-!斎藤です!受かったぜ-!」
 もう喜びから、自分が何を言っているのかも分からない。ただ1年ぶりに、彼に「勝利」を伝えたかった。彼の上京の日から、会うことはもちろん、一度も話したことさえ無かった。
1年前、必ず合格して、彼の前に再び「対等な友」として現れることを誓った。それが今日だったのだ。
 電話同志をくっつけたので、電波が混線し雑音がひどかった。それでも彼の祝福する声が聞こえてくる。そう、あの懐かしい声だった。
 「おめでとう、本当におめでとう」 
 「ぎゃははは、聞こえないよ、声が!雑音がひどすぎる!何っ、何-?」僕は何回も何回も聞き返していた。
 シンジさんも入り混じって、3人は雑音が飛び交う中、大声で叫び合う。笑い声はいつまでも途切れることはない。
 
 僕達が出会ってから2年経った。その3人の戦いは、「勝利」という最高の形で幕を下ろす。ついに3人は、3人とも同じラインに並んだのだ。しかし多くの時がたった。思えば長すぎるドラマであった。
 そして僕達は勝った。だが何度も言う。それは「受験」にではない。その先にある「自分自身」に勝利したのだ。
 歓喜のラストシ-ン、まさに「大団円」であった。


21、3月。日本頂上決戦!



 4つの合格という武器は、僕に強固な自信を付けた。これまでの実績、成績は「プレッシャ-」から、僕を後押しする「パワ-」へと変わっていた。「呪縛」から解かれた今、恐いものなどこにもない。
 サ-クル中に合格メ-ルを送ると、彼らさえもう余裕が無くなった。「おめでとう」、この一言が神戸の地から一切届かない。しかし僕はそれを腹立たしいとは思わなかった。むしろ「沈黙」こそが、最高の誉め言葉である事を分かっているからだ。
 後は天下を取るだけだった。
 3月13日、東大2次試験当日。偏差値80の僕の第一志望校だ。「今ならいける」、あの言葉が確信を持って迫ってきた。
 試験会場の東大に着く。「とうとうここまで来たか・・・」、僕は込み上げるものを感じていた。教室に入ると、そこには今までとは違う、異様な緊張感が張りめぐらされている。当然だ。「センタ-8割後半」を一次試験合格ラインとしているため、「記念受験」「勘違い野郎」はもはやここにはいないのである。受験者全員が最高レベルを誇るツワモノ達だ。
 試験科目は英語と日本語の論文。試験時間はそれぞれ2時間半で、合計5時間もある「最強」の試験だ。そのレベルはもう受験生の手に負えるものではない。ここまで来ると、「運」など通じない。日本の頂点にふさわしい「最強の勇者」のみが、合格できる正義の場である。
 試験が始まると、僕は悠然と立ち向かった。
 「今なら何でも出来るんだ、誰にも負けることなんてありえないんだ」
 もうそこには、あの惨めな僕の姿はない。誰の目にも映るものは、自信に満ちあふれる「勝者」の輝きであった。
 英語ではもう「読めない」なんて問題は存在しない。4ペ-シ弱の「最高レベル」の英文を、わずか30分程度で読破。何回も何回も、書き直しがで出来るほど完璧に答案を作った。予定通りである。
 2時間目の「日本語」に突入する。
 例年の試験パタ-ンは、難解な哲学書から膨大な文章が出典され、それを踏まえての2400字論述。テ-マは「人間とは何か」であった。僕が東大でも、文学部を受験した最大の理由は、このテ-マゆえだった。
 思えばこの2年を超える年月、僕は「自分」、そして「人間とは一体何なのか」についてずっと考え続けた。「人間」、これは僕の人生のテ-マでもあったのだ。
 その年、試験傾向が大きく変わった。テ-マ「人間」は動かないものの、出題に使われたのは「文章」ではなく、たった3枚の「写真」だった。僕はそれを見た瞬間、思わず吹き出した。笑うしかない、もう何でもありの、次元を超えた難しさだったのである。
 2時間半、僕はその3枚の写真を使って、この戦いのの思い全てを、2400字に叩き付けた。
本音を全てさらけ出せ!「本当の自分」って、「人間の真の姿」って何なんだ?醜さと向き合え、直視しろ、そこから全てが始まるんだ!それが「人間」なんだ!
答案は出来上がった。悔いはない。僕は静かにペンを置いた。その瞬間、32カ月ほぼ毎日受験勉強という悪夢から、僕はついに解放された。


22、堂々終戦!これが僕の人生だ!



 3月23日東大合格発表日、この日は僕の誕生日だった。この「ドラマ」の結末を飾るにふさわしい、僕はそう感じた。「舞台」は全て整った。
 この日、僕は一人で発表を待つ。その内心には、感極まるものがあった。
 ここまで波に乗っている。「今の僕には不可能などない」、こんな傲慢にも似た言葉でさえ、確かな説得力をもって響いてくる。
 「東大に受かれば何も言うことは無い。この地獄の日々が全て報われる。正義は最後に必ず勝つ。頂点に立つのは、この僕だ!」
 僕は「最後の勝利」、そしてこのドラマの「結末」を待つだけだった。
 恒例のごとく東大の学生応援団が、「今か、今か」と騒いでいる。そして時刻は10時を指す。ついに大学関係者が、合格掲示板の周りにあるロ-プを外した。全学部、同時合格発表だ。受験者達が一斉に動き出す。すぐに歓喜の声が、あちらこちらから飛んでくる。僕は深呼吸をして、自分自身を落ち着けた。その時、「受かる直感」が脳裏をよぎる。ドラマが最高の加速を始めた。僕は群集をかき分け、掲示板の一番前に立つ。顔を上げた。 「あ・・・・・」


 そこに番号はなかった。


 何かの間違いだ、僕はもう一度番号を確かめた。何度も何度も確かめた。しかしいくら目を凝らしても、そこにはあるはずの番号がなかった。僕の番号だけがなかった。
 「はははははっ」、その時僕は笑っていた。「・・・・落ちてるよ、何だ落ちてるよ」僕はおかしくてたまらなかった。ここまで、ことごとく受験大学は合格してきた。正義は必ず勝つ、確かにその通りだ。偏差値80まで上げた、それだけの力があれば落ちるはずはなかった。
 ただ「どこまででも受かる」と思い込んだ。これが間違いだったのだ。僕は肝心な事を忘れていた。
 
「100やれば、10返ってくる」

 この受験はこの一言から始まったはずだ。そう、これはそんな「ドラマ」なのだ。そしてその主役は他でもない「僕自身」なのだ。
 最後まで僕の人生はこれだった。これがくつがえされる事は、とうとう最後の最後までなかった。何を思い上がっていたんだ、東大合格?それじゃあ100やって100返ってきてるじゃないか、僕は痛感していた。
 これだけ勢いに乗ったが、それでも100やって100、ましてそれ以上は絶対に返ってこなかった。だから早稲田、外大に落ち着いたんだ。長い長いドラマだった。しかし考えてみれば、「100やって10返ってくる」、結局これは何も変わらなかったのだ。
 そんな馬鹿馬鹿しさが、たまらなくおもしろかった。だから僕は笑っていた。「番号がない」、この光景がドラマの結末に一番ふさわしかったのだ。
 「やっぱりね」
 何度もこうつぶやいた。そして「祭り」の様なその舞台から、僕は静かに引き返していく。

 そんな帰り道、僕はふと考えた。
 「これからどうする」
 さらにもう一年やれば東大に受かるかも、そんな事も頭をよぎった。
 しかしその時、僕は心から言えた。

 「すいません、もう出来ません、勉強嫌いなんです」、と。
 「オマエはバカだね、惨めだね、東大落ちてさ」、そう言われても、その時の僕は何も悔しくはなかった。「そうなんです、僕バカなんで・・・」、この一言が言える。むしろ卑屈にさえなれた。だけど気分は心から晴れやかである。
 何故なら、僕は目指していたブランドが手に入ったからだ。確かに東大は落ちた。しかし去年かなわなかった場所にまで、死ぬ気で這い上がった。僕を支える確かなものが、今は手に出来た。それは何を言われても、動じない「余裕」だった。自分とはこういう人間だ、という確かな「自己」だった。
 「俺は本当は頭が良いんだ、能力があるんだ」「ブランドより、人間性だよ」、大人になるにつれて、いつしか自分を守るために、たくさんの「言い訳」を身にまとった。しかし、ようやく決着がついた。僕の人生からコンプレックスが消え去ったのだ。虚飾はもはや一つもない。目の前には、裸の自分自身の姿があった。自分は一体何者なのか、何が自分にとって一番幸せなのか、ようやく分かった。 

 僕のドラマは終わった。33カ月。本当に長かった。しかし「ゴ-ル」は「スタ-ト」である。新しい自分がそこにいる。そう、ここから僕の人生は始まるのだ。何が起きるか分からない。だけど僕には不安はなかった。
 何故かって?
 答えは簡単だ。確かな「自分」がいるからだ。33カ月もの時間をかけて、ようやく出会えたのは、紛れもない本当の「自分自身」だった。
 いつまでも僕の側にはそんな「自分」がいる。苦しくなった時、何か壁にぶつかった時、「自分自身」に尋ねてみればいい。「どうしようか」って聞いてみるんだ。そうしたら、必ず答えが見つかるだろう。
 人生って楽しいな、そんな言葉が僕を包み込む。

 何だ、普通じゃないか。僕はそう思った。
 ドラマが終わったその後に、いつもの変わらぬ僕がいた。
 何もかも「普通」の僕がいた。

偏差値70からの大学受験 大学2年生編 後編

6、7-8月。
コンプレックスの巣窟、大学のサ-クルとはこんなもんだ!



 そんな僕達だったが、夏休みに入ると「息抜き」のため、月に一回、大学のサ-クルに行くことになった。これが僕を、さらに狂わせた。
 サ-クルとは、大学で青春を謳歌する素晴らしいものと、世間では言われている。
 ところがこれはデタラメだった。
 全てのサ-クルがそうだとは言えないが、少なくとも僕の行ったサ-クルは、楽しみたいけど楽しめなかった。偏差値の低い者には、その「楽しむ」資格がなかった。
 参加したのは、あるディベートサークルだった。このサ-クルは神戸大学だけでなく、様々な大学との共同で運営する、全部で20人ほどの小さいサ-クルだった。「いろんな大学同志、仲良くやろう」、これが彼らのテ-マだった。
 ところがこの「共同運営」というのが、一番まずかったのだ。様々に偏差値の違う大学同志が、仲良くやっていけるはずないのだ。20に近い大人達が、「平和に平等に」なんて、出来るはずないのだ。
 
 なまじっか「ディベ-ト(討論)」で活動するので、サ-クルの権力は「いかに知性をアピ-ルし、ディベ-トで活躍するか」で決まった。となると男性は誰でも「権力」にあこがれるので、ディベ-トでいいカッコを目指す。
 ところがここで大問題だ。
 そう「大学名」だ。神戸大学のヤツが発言すれば、全員「すごい」となるが、偏差値40代の大学の連中が発言すると、「調子にのるな」というキツい視線がビリビリと支配する。つまり「偏差値が低い人間は、説得力がないよ」という訳だ。案の定偏差値が低いのに、イキがるヤツは、どんどんサ-クルを脱退せざる得なくなる。
 表面上は「人間平等だ。偏差値じゃなく人間性でしょう」と言っているが、実情はとんでもなかった。「あの人は偏差値が低くても、人間が素晴らしい」というヤツもいたが、大体ディベ-トでは静かに目立っていない人間だった。卑屈に生きていれば、偏差値が低くても評判を得ていた。だが卑屈に生きられる人間なんていない。
 舞台裏では、偏差値の低いやつは偏差値の高いやつを否定し、高いやつは低いやつをバカにしていた。
 気になる女の子の評価でも、「大学名」は確実にブランドとなっていた。もちろんルックスの善し悪しもあるが、正直になれば、「大学名」ブランドが大きな決定力になっていた事は事実だ。

 「男はカッコよさか内面」、というのが僕の高校時代だった。ところがここでは「大学名」というブランドが加わった。
 基本的に大学生はほとんど暇だ。何かに打ち込んでいる奴なんていない。みんな動きを一斉に止めているので、やはり唯一差が出るのは「大学名」くらいだったのだ。

 「大学名」、「権力争い」、「人の悪口」、「男女問題」、それらが渦巻くサ-クルは、ある種「社会の縮図」だった。
 
 僕はといえば、「斎藤はノンキでいいよな」「いつも笑っていられて、うらやましいよ」「バカだな、オマエは」、いつもこうだった。ある時は、「神戸大学でも、夜間でしょ?」と、女の子にまでバカにされた。しかし全部事実だ。反論しても「負け犬の遠吠え」だ。黙るしかない。
 僕は完全にナメられていた。ここでも評価の基準は、「神戸大学夜間」だった。
 サ-クルで卑屈に生きる自分の姿を見るのが、本当にヤル気を起こさせた。「こんな姿で一生終わりたくない」そう奮い立たせられた。
 口でどうこう言っても始まらない、体で分からせてやるぞ!僕はこう決心した。これが全てのきっかけだった。
 僕はサ-クル全員の評価をくつがえすため、英検準1級、模擬試験勝負の挑戦状をたたきつけた。相手はもちろん、サ-クル内で権力を握る、「神戸大学、昼間生」だ。


7、9月。ついに偏差値80の夜間生が本性を表わす!
夜間生VS昼間生、模擬試験で対決だ!



 夏が終わった。僕の受験勉強はついに2年を超えた。実際この頃になると、自分でもかなりの力がついているのが分かった。
 日本では英語の受験レベルを超えているとされる、慶応大学の総合政策、環境情報学部、通称「SFC」の入試問題がある。3、4ペ-ジの難解な英文を読み、30個の選択肢題に答えるというものだ。以前テレビで、本場のアメリカ人でも「分からない」と言っていたのを見た。それくらい難しいのだ。当然受験界でもバッシングは凄まじく、「合格者の大半は運で決まる」とまで酷評されている試験だ。
 1浪目、確かに早稲田慶応レベルは解けたが、このSFCは別格だった。自分では解けることなんて有り得ない、と思っていた。予備校でも具体的な勉強方法が確立されていない程、「有り得ない試験」だからだ。
 ところがこれだけ勉強して、何千もの英文を読みこなしていった僕は、ついにSFCまでも、確実に分かる様になっていた。やはり受験に不可能はないのだ。努力すればどんな問題でも、必ず出来るようになる。そう確信した。
 「読める!確かに読める!」この興奮は今でも忘れない。あれだけ難しいと思った問題が、確実に出来ている。運ではなく、しっかりと文章構造までがつかめていた。時間は多少かかるが、7割から8割程度まで得点出来るまでになっていた。かたっぱしから「要約」もしていった。
 こんなところまで自分を引き上げた。だからその力を、サ-クル中に分からせてやりたかった。勝負だ。誰が一番すごいかはっきりさせてやる。
 彼らにこう叫ぶのだ。ここに偏差値80近くの「夜間」がいるぞ、君たちの大好きな大学名を追い求める、'偏差値の亡者'がいるぞ、と。
 矛盾するかもしれないが、「大学名で人は判断できない」という事を、実感させたかった。

 どうしたら最も衝撃的か。
 僕はこう考えた。この登場シ-ンは、出来るだけ派手な方がいい。
 「そうだ、昼間の学生と一緒に受験して、勝負してやればいい」
 僕はヤキソバという神戸大学昼間のヤツに、「英語検定準1級、一緒に受けないか?」と誘った。
 英検準1級は、偏差値70レベルの難関試験だ。サ-クルではその時、誰も持っていなかった。サ-クルで評判の彼は、僕の事を「バカ」だとしか思っていないので、快く受験を承諾した。
 「一緒に受けよう」と言っている時点で、もう勝負だということだ。しかし彼にとって僕は相手だとも思われていなかった。

 僕はサ-クル中にこの勝負を伝えた。
 僕は最も得意とするフィ-ルドで、彼と戦うことになった。
 「夜間」VS「昼間」ついにこの勝負がやってきた。あれだけあこがれていた「昼間」の人間と、この手で戦えるのだ。
 サ-クル中は「ヤキソバ勝ち」を確実としていた。いや、勝負とさえ見ていなかった。あの斎藤が勘違いしてるぞ、という位だったのだろう。
 第一戦は9月の模擬試験。第二戦は10月の英語検定準1級。公平を期して、勝負科目は英語一教科。これなら大学生、受験生関係ない。周りは何とも思っていなかったが、僕は絶対に負けるわけにはいかなかった。意地があった。


8、驚異の偏差値80!神戸大学志望者、全国第一位!
これが「夜間」の実力だ!



 9月15日。日本で最大規模の模擬試験が行なわれる日、僕はまるで受験本番の様に緊張していた。「まずはここでヤキソバに勝つ。必勝!」こう自分に言い聞かせ、僕は試験会場に向かう。
 サ-クル中が注目するわけで、僕の英語以外の成績も、くっついて公表されるわけだ。パ-フェクトな成績表を出してやりたかった。
 ただ僕には自信があった。英語の他に、その切り札は「国語」だ。
 ハイレベルな問題集を片っ端から購入し、すべて「要約」する。早稲田慶応レベルの過去問題も、すべて「要約」する。これを2年間近く毎日毎日やっていると、どんな問題でも解けるようになっていた。古文も大体完璧に近く、死角はなかった。

 ヤキソバはバイトの帰り、余裕でやってきた。会場の大教室に入るなり、「模擬試験なんて久しぶりだなぁ。試験といえば、いつも神戸大学の期末試験だからなぁ」と近くに座っている受験生に、ワザと聞こえるような声で話し出した。周りの受験生は会話を止めて、ヤキソバの方を見ていた。当然だ。彼らの憧れである「神戸大学」の学生がここにいるのだ。輝かしい勝者が、今自分たちと同じ模擬試験を受けているのだ。
 ヤキソバは確かに勝者だった。俺は格が違う、という自信が満ち溢れている。僕はなおのこと、彼に勝たねばならなかった。
 試験は怒濤のごとく過ぎていった。

 その後の結果は恐ろしいものだった。僕は返ってきた結果を見て、何がなんだか分からなかった。
 「ヤリ過ぎた」
 それが最初の感想だった。そう、ここまでヤル必要はなかったのだ。
 英語は9割近くで偏差値77。数学は75、公民は65。そして何より、国語は83だった。特に現代文はほとんど間違えていなかった。マ-クは満点。記述で多少引かれたくらいだ。
 4教科で75、0。3教科で78、3もあった。早稲田慶応の様な私立志望者の中ならば、全国8位だった。執念の結果だ。これなら日本全国どこの大学を志望しても、A判定だ。
 僕の志望校には、しっかりとあの大学名が書かれていた。
 そう、「神戸大学経営学部、昼間コ-ス」と。
 偏差値62の大学を、偏差値78、3の実力者が志望しているのだ。当然A判定。そしてぶっちぎりで全志望者中トップだった。全国で1100人程度が志望していたが、全員敵ではなかった。
 最大の皮肉だった。「神戸大学」全国志望者のトップに立った男が、神戸大学「夜間」なのだ。「夜間」をバカにする「昼間」のトップが、「夜間」なのだ。仮に経営学部じゃなくて、どこの学部を書いても、僕はダントツ一位だっただろう。それなりの成績だ。つまり僕は、その年度の神戸大学トップになった。

 続いて英検準1級。その試験に出る単語レベルは、「異常」とも言えるものだった。普通の受験生なら、まず読めないだろう。ただ当時の僕に「分からない」単語はほとんどなかった。
 何も問題ない。余裕で合格した。2次試験の面接はあるけど、受験者の9割は受かるので、もう僕は合格したのも同然だ。
 ついに僕はとんでもないところまでやってきた。全国クラスというレベルまで、到達したのだ。「夜間生」であるこの僕がだ。
 
 成績表を持った僕は、最初にシンジさんのもとに向かう。
 ただ自分で言うのも何だが、僕はこの時正常ではなかった。この成績が僕を少しずつおかしくさせていたのだろう。
 彼はいつもの食堂にいて、僕の結果を待っていた。
 「どうでしたか?」彼はこの勝負を応援していた。「夜間の意地をみせてやりましょう」これが合い言葉だった。僕は黙って模擬試験と、英語検定の成績表を渡す。
 彼はみるみる顔を変えた。そして一言目だった。
 
 「貼りましょうか?」

 僕はこの時の衝撃を忘れない。あの極限の状況だったからこそ、出た言葉だったのだろう。「模擬試験を大学中に貼り出す」、こんな事思いも寄らないことだった。
 サ-クルだけではない。大学の昼間の連中に全員見せつけてやるのだ。「夜間とはこんなもんだ!偏差値が何だ!」こう叫ぶのだ。
 シンジさんは興奮気味に言った。「この成績なら貼り出せます。誰も文句言えないですよ。神ですよ!こんな成績、僕は今まで見たことがありません!いくら神戸大学生でもありえない成績ですよ」と。
 昼間だけじゃない。夜間で卑屈にコンプレックスに溺れている奴にも、この成績を見せつけたかった。クラスでは夜間生が、未だに「自分の頭の良さ」をアピ-ルし合っていた。裏では「あいつはバカだ」と友達の悪口をも言い、自己満足している。怪しいプライドが、錯綜していた。ハタから見れば何て惨めな光景だろう。
 「コンプレックスなら、正々堂々戦おうぜ!」 僕はただそれだけを、彼らに言いたかったのだ。
 その日、僕達は本当に普通ではなかった。「模擬試験を貼り出す」、そんな発想普通なら到底思いつかないだろう。ただあの時は、確かに何でもありだった。
 それからの1週間、毎日カップラ-メンにしてお金を作り、模擬試験ビラを500枚もコピ-した。真っ黒な下地に、模擬試験の成績が張り付けられ、題字には大きな文字で、「僕、夜間!偏差値80!僕ってすごいでしょ?」「夜間の実力はこんなもんだ!」と踊っている。そして成績表の「志望校」の欄には、「神戸大学昼間コ-ス、全国1位」と書かれ、マジックでグリグリにマ-クしてある。その横には、「夜間、ナメんな!」の文字。一種異様なビラだった。
 僕達は夜遅くまで、大学中にビラを貼りまくった。ありとあらゆるところに貼りまくった。掲示板、教室の壁、挙げ句の果てには天井まで張り付けた。その姿はもはや「普通」ではない。「異常」だ。
 この時から僕は心に決めた。「もう黙っているのは終わりだ」と。
 正々堂々勝負してやる。みんな見ていろ、この僕が偏差値80の夜間生だ!
 僕は自分の中で、何かが変わっていくのに気付いていた。平凡平和で過ごしてきた、あの高校時代が懐かしかった。僕の人生は確かにフツ-だった。ただ今は違う。僕はこの手で神戸大学中を敵に回し、そして全国という舞台で勝負するのだ。
 もう後戻りが出来ない、そう僕は自分に言い聞かせた。


9、10月。神戸大学中を巻き込む、驚異の模擬試験ビラ!
夜間生が全員敵になる!


 次の日の朝、僕はサ-クルの「ロング」という昼間の神戸大学生からの電話でたたき起こされた。
 「あれ、オマエだろう!学校が大変なことになっているぞ!」
 彼の声は興奮気味だった。しかし寝ぼけている僕には、彼が何のことを言っているのか分からない。彼は繰り返した。「早く大学に来い!早く!」と。

 大学に行ってみると、驚くべき光景が広がっていた。ビラが貼ってある場所には、黒山の人だかりが出来ていたのだ。予想もしないことだった。
 普通、大学には様々なビラが貼ってある。サ-クルの勧誘チラシやら、思想団体のメッセ-ジなど、大量に貼ってある。これはありふれている風景なので、誰も足を止めて、それぞれのビラを見たりはしない。
 ところが、この「模擬試験」ビラでは話が違った。誰もが通った受験の成績表だ。しかも「夜間」のものである。さらにその数字は驚異的なもの。学生全てがこれに、強力に吸い寄せられた。食い入るように見入っている。「受験なんて終わったよ」こういう勝者達でも、興味津々だった。
 僕はてっきり、「へぇ」ぐらいで、流されるもんだと思っていた。誰も関心など示さない、そう考えていたが、大きくその予想はくつがえされる。
 その人だかりの側に行くと、「何だこれ?」「夜間が受けたらしいよ」とざわめきあっている。「こんなくだらないものに・・・」とク-ルを装いながらも、我慢できないのか、目を凝らして眺めている。挙げ句の果てには、教授までもが興味深げに立ち止まった。
 大学中ありとあらゆる所で、「模擬試験ビラ」の話題がもちきりだった。食堂で勉強していれば、隣に座るほとんどの学生達が、「見た?」「見た!見た!」「何だあれ?」「何でこんな事するんだろう?」など、ビラ事件で盛り上がっていた。「
 中には「俺は昔、偏差値がこうだった」とか思い出話に花を咲かせる者、「あの成績表は、英語がどうだ、数学がどうだ」と、ご丁寧に分析までする者までいた。もうみんなが夢中である。
 大学生活はとかく暇だ。そんな彼らにとって、「偏差値ビラ」は最高のスパイスだったようだ。「そんなに偏差値が大好きか」、僕は強く確信した。
 ビラに対しては、もちろん賛否両論あったが、平均して「こんな事するなんて、気持ち悪い。だけどすごい」というのが、昼間の連中の意見だった。
 昼間の連中は、一応受験の「勝者」だ。だから余裕があるんだろう。

 ところが、夜間では話が違った。
 誰もが認めざるを得ない成績を叩き付けてやった。しかも「夜間」がだ。昼間の連中の評判をくつがえしてやった。そして僕は受験を正々堂々戦うことを、宣言してやったのだ。だから僕は、夜間の連中がほめてくれる、もしくは「あの斎藤が・・・すごい」と言われると思っていた。中には僕と同じく、自分のコンプレックスを認め、戦いを決意するものが現れる、とまで思っていた。
 しかしとんでもなかった。
 クラスに意気揚々と入っていくと、まずは「ヒルマ」が駆けよってきた。そして怒りに満ちた声で、「何であんなことするんだ!くだらない!何が受験だ!夜間の恥だ!」と吐きつけてきた。何を言ってるんだ、夜間がバカにされているのは、オマエでも分かるだろう!逆に評判を上げてやったのはこの僕だぞ、こう怒鳴り返してやりたかった。ただ僕も大人だ。ここは抑えた。
 そんなにくだらないなら、無視すればいいだろう、イチイチ構うなよ、僕はこう言った。 すると彼の顔はみるみる引きつり、最後にこう言ってのけた。
 「何が偏差値80だ。何にもすごくないぜ。そんな数字でイキがるなよ」
 さすがの僕でも、これにはキレそうになったが、その怒りを通り越して呆れていた。もう彼らには何も伝わらないのだ。
 IQは「こんなの誰でもとれるじゃん。サイトウはバカだ」と繰り返し、僕の悪口を広めはじめ、未だ状況は変わっていない。いや、むしろ以前より状況は悪化した。
 その日、昼間の学生と違い、夜間の学生には余裕が無かった。
 ビラの周りに黒だかりに集まり、興味津々なところは昼間生と変わらないものの、そのビラに口汚くののしっていた。誰もほめたり、すごいなんて言ったりする者はいない。
 「何が受験だ、くだらない!何でこんなことするんだ、バカ!」こればっかりだ。
 僕は思わず言ってやりたかった。
 去年のバクダンにしてもそうだ、「バカだ、クサイ」と言われているのは、オマエらの方なんだぞ、と。
 
僕は一躍夜間の中では有名人になった。いや、全員が敵になったと言った方が、良いのかもしれない。名前は知らなくても、教室に入れば全員から注目された。決して良くは思われていない視線だ。中には睨み付けている奴もいる。
 僕はビリビリとこの肌で、自分一人抜け出した感覚を感じていた。
 彼らはとても元気だった。何故なら僕がとてつもない成績を出しているとはいえ、まだ夜間にいるからだ。彼らは全力をもって、僕を止めにかかった。
 「ヤツを外に出して、勝者にしてはいけない」、そんな意識だ。

 僕がその日大学を帰る頃、IQ、ヒルマ、イガ、その他のコンプレックス連中が一同に集い、僕を待ち構えていた。
 そして僕の目の前で、嫌らしい笑みを浮かべながら、こう言い放ったのだ。
 「こんなのたかが模擬試験だよ、くだらない。大学に受かったわけじゃない!こんなビラ、全部剥がしてヤルよ。何にもすごくない!」。
 彼らは僕達の模試ビラを、ことごとく剥がし始めた。「正義の味方」になったつもりか、彼らは得意満面だった。
 僕は黙って引き下がるしかなかった。シンジさんはこの話を聞き、「ますますここに居たくなくなりました」とこぼす。絶望がさらに深まっていったのだ。

 僕は怒りに満ちた。
 昼間のヤキソバは僕の成績を見て、「こりゃすごい、オマエはすごいんだな」と認めてくれた。さすが勝者の余裕。ここの成績では負けても、天下の神戸大学生だ。人生では負けてはいない。イチイチこんな些細な勝負に目くじらは立てない。またサ-クル中の評判も一変した。良くは思われないものの、「タダ者ではない」という評価になった。
 しかし夜間は全然違う。口で言っても、分からない。ところが体で分からそうとしても、それでも分からない。
 とんでもないヤツを怒らせてしまった事を、彼らは気付いてはいないようだ。
 僕は決心した。彼らを後悔させてやるまで、僕は敢えて戦ってやる。もう止められないし、止まらない。


10、11月。日本で唯一の1年生編入試験登場!
大阪外国語大学、偏差値70!
そして戦いの火蓋が切って落とされる!



 クラスではどっから出てきたのか知らないが、「日本で唯一、1年生が受けられる編入試験がある」という話が回ってきた。

 普通、編入試験というのは、2年生が秋から冬に受けるものだ。そして3年生から合格した大学に移動する。
 編入は大体どんな大学にもあって(東大はない)、実際の一般入学試験よりは、正直偏差値は5、6下がる。だから頑張れば確実に合格出来るのだ。
 ところがここで「1年生の秋に受け、2年生から移動出来る試験がある」というのだ。つまり「1年生編入」である。その大学名は「大阪外国語大学」。東で言えば、東京外国語大学とほぼ同レベルであり、関西では名高い一流大学である。大体偏差値は、学科によって65から70。幸い1年生からやり直している僕にも、受験資格がある。
 当日面接の試験官が話していた事だが、この1年編入は日本全国ここだけであり、その分人気が集まって、一般の試験よりやや難しいらしい。実際受験してみて、僕もそう感じた。そうなると偏差値70オ-バ-になる。極めて難関だ。
 もちろんクラスの夜間生は、誰も受けない。そんな勇気はない。
 そして注目が僕に集まった。
 
「斎藤は受けるのか?それとも逃げるのか?」

 当然受験する、僕には迷いなんて無かった。2月の一般受験の前に「夜間」を脱出が出来るのだ。もうこんなコンプレックスから抜け出せるのだ。チャンスは絶対逃したくはない。
 こうなるとIQ達は、黙って僕の不合格を祈るしかなくなった。ここまで来ても、相変わらず行動は起こさないらしい。
 受験学科はどこにするか?
 僕は国語を極めていたので、日本語に興味があった。どうせ勉強するんだったら、日本語学科かなとまで思った。しかしそんな事関係ない。偏差値が一番高く、胸を張ってエバれる「英語学科」しかない!ヤリたいことなどクソくらえだ!
 幸い高校時代、バイトして貯めた少しの貯金が残っていた。これを全部、受験料3万円に注ぎ込み、「絶対合格」に向けて走り出した。偏差値的には試験科目英語も偏差値80近くあり、何の問題もない。大阪外国語大学だったら、100やって10返ってくるラインに十分入る。
 「今度こそいける!」
 去年より確実な手応えが僕にはあった。

 11月25日。大阪外国語大学1年編入試験日。その日が運命の開戦日となる。
 ほぼ時を同じくして、シンジさんの戦いにも幕が切って落とされる。こちらの舞台は2年生編入だ。彼は万全を期して、京都大学大阪大学東北大学神戸大学の受験を決めていた。2年間の怨念がこもる、編入ランキング2位の彼だ。ここまで受験すれば必ず受かるだろう。必勝体勢だ。もう僕らは夜間には帰れないのだ。

 僕達に去年の事が、ふと頭によぎる。
 この受験はともに受かるしかない、という事だ。どちらかの脱出では勝利ではない。二人そろって合格しなければならない。僕達は無言にも、その事は分かっていた。
 今年、彼とはうわべの「友情」を超えた、固いキズナで結ばれた。ともに戦う同志だ。周りは全員敵だった。辛いときはお互い励まし合った。カズヤに次ぐ、僕にとって2人目の戦友なのだ。今度こそ、二人とも勝利しなければならない。ここからが本当の勝負なのだ。
 ついに「脱出」と「ブランド」をかけた僕達の長年に渡る戦いが、終幕に向けて最後の加速を始めた。

偏差値70からの大学受験 大学2年生編 前篇

大学2年生編
 
2000年大学2年生


1、2000年4月。夜間に一年振りの復学!王将、笑顔のお出迎え!



 僕は1年ぶりに夜間に復学した。

 大学の授業は、大体4月の上旬から始まる。それまで、家で受験勉強を相変わらず続けていた僕は、久しぶりに大学に行くことになった。授業初日のことだった。
 僕は落ちてからの一ヶ月、屈辱に耐えられなくて、ほとんど人間との接触を絶っていた。だからこそ気分転換に大学はもってこいだ。そう思って僕は家を久しぶりに出た。しかしそれは大きな間違いだった。休学するときに考えていた、「落ちたら何言われるか分からない」という事を忘れていたのだ。
 
 授業初日、一年ぶりに僕はあの長い、そして辛い山道を僕は登り、ようやくキャンパスにたどり着いた。
 授業少し前で、食堂でまた勉強しようと向かっていたら、前から見たことのある奴が歩いてきた。王将だった。そうあの模擬試験を見せて、反感をくらった彼だ。僕はとっさに「まずい」と思ったが、もう時すでに遅かった。
 彼は僕を発見すると、満面の笑みを顔に浮かべ、駆け寄ってきた。「落ちたんだって?」彼は嬉しそうに僕に声をかけた。僕はようやく気付いた。落ちたらこれが待っているという事を。
 王将はあれだけ自分を不快にさせた奴が、見事に失敗して帰ってきたので、本当に元気になっていた。「落ちたんだって?どこ受けたの?そんなに受けたのに全部落ちたのかぁ。オマエには難しかったんだね」と、一方的にしゃべりだした。
 そして彼は、最も僕の感情を逆なでする発言をかます。
 「やっぱりね。俺は落ちると思っていたよ。オマエは本当に根性がないからなぁ」笑いながらこう言ったのだ。彼はもしかしたらそこまで悪気はなかったのかもしれない。冗談だったのかもしれない。ただ僕は一切笑えなかった。
 「違う!あれだけ勉強したんだ!勘違い野郎ではない!」僕はこう叫びたかった。
 「本当は受かったんだ!」
 ただ僕は結果として落ちた。だから何も言えなかった。
 僕は苦しまぎれに、王将にこう返した。
 「オマエは龍国大学から仮面浪人で、ここに受かったんだよね。よく成功したね。すごいよ。僕も君みたいだったらなあ。」
 龍国から神戸大学夜間と、夜間から早稲田慶応ではレベルが全然違う。そんな事情を踏まえての、僕からの精一杯の皮肉だった。しかし彼には僕のそんなささいな攻撃は、全く通じなかった。それどころか、彼はそれを「褒められている」と勘違いして、ご機嫌になってしまったのだ。
 「そうだねぇ。龍国から仮面浪人したときは辛かったなぁ。オマエはそういう辛さに耐える力が、無いんだよ。俺は本当にあの時頑張ったよ。仮面浪人とはこういう風にするんだぜ・・・・・・・」と、あげくの果てには、「龍国脱出」の自慢と「仮面浪人とは」の説教話が始まった。
 もう笑うしかないのかもしれない。しかし僕は笑えない。引き続き黙って彼の話を聞くしかなかった。僕は思った。ここでキレて王将に殴りかかっても、何も始まらない。こん悔しさをにぎりしめながら、頑張るしかない、合格するしか道はないのだ、と。
 僕は本当に悔いがないくらいに頑張った。だからこの落ちた悔しさは、計り知れないくらい大きい。王将のこの「お出迎え」は本当に脳裏に焼き付いた。ヤル気がますますわいてきた。
 王将はこう繰り返した。
「カズヤは受かると思っていたよ。オマエはもっと頑張らなくちゃいけね-よ」

 王将にはこの時1年ぶりに会った訳で、彼は僕の不合格やカズヤの合格を、何故知っていたのだろうか。後々分かったことだが、僕達の情報はどこからともなく流れ、ほとんどの知り合いには恐るべき速さで広がっていたらしい。「偏差値情報」かつ、他人の不幸話に、彼らがどれだけ興味を持っていたのか分かった。別にこれを否定はしない。夜間に限らずコンプレックスはどこにでもあることなのだ。ただ身をもってこの真実を実感しただけだ。
 王将に限らず、高校の友達などからも僕は認められなかった。親からでさえもだ。過程は結局どこからも評価されなかった。僕は自分の中にある「仲良しこよし」という価値観が、もろくも崩れ去っていくのを感じた。

 
2、夜間オ-ルスタ-ズ!
コンプレックスの勇者達がついに登場する!


 僕は授業に出た。ただ去年休学してしまったので、ほとんど僕は「新入生」みたいなもんである。だから2年生だけど、1年生の授業に出ることになった。僕は正直有り難かった。というのも同期のほとんどの2年生は、僕の不合格を知っており、あまり顔を会わしたくないからだ。しかしそれは間違っていた。
 もちろん同期には変な奴がたくさんいたが、この共に授業を受ける「新入生」の方が、数段狂っていたからだ。今考えてみれば「よく揃ったな」というくらい、コンプレックスにまみれた人間達がそこにはいた。
 
 まずは最初の授業、僕は「ヒルマ」「イガ」「IQ」という奴と知り合いになった。全員年は同じの1浪生だった。こいつらが別名「オ-ルスタ-」の代表だ。
 「ヒルマ」という奴だが、彼は神戸大学「昼間」を受験して、不合格。そして名前を得るためだけに、この「夜間」に入学してきたらしい。会った時から、「僕は昼間を受験した。一応,私立関西学院(偏差値58)は合格した。」と自己紹介をかまし、僕は彼から「夜間にいるけど、本当はもっと出来るんだよ」という意識がビンビン感じられた。やはり卑屈に生きている奴はいない。
 そして「イガ」という男だが、彼も立命館(偏差値57)には受かったが、名前だけ得るためにここに来たらしい。そして傑作だったのが、「自分は小学生の時に、学校の手違いで5年生を2回やってしまった。だからオレは年は君と同じだけど、現役でこの夜間にやってきた」というのだ。
 彼は自分が「夜間」に1浪して入ってきたことをエラク気にして、怪しいウソをついて隠そうとしていた。ここにも「俺は本当は頭がイイんだ」というアピ-ルが出ていた。「どんな些細なことでも、自分はバカにされたくない」というプライドが、全面に感じられた。
 ここまででも十分おかしいのだが、次のIQという奴が一番おかしかった。Mrコンプレックスと言っても過言ではないだろう。
 「自分はIQ160」、彼はそう僕らに自己紹介した。IQ160と言えば、「天才」である。
 IQは知能指数の略で、学力にはある程度比例すると言われている。普通の人間は100で、チンパンジ-は80という感じからすると、彼は間違いなく「天才」だ。本やインタ-ネットで調べてみたが、IQ160あれば、本一冊でも一回読めばほとんど暗記してしまう位らしい。まして受験勉強なんか取り組めば、楽々偏差値80ラインまでくるかもしれない。
 しかし彼は受験をやった結果、「夜間」にいることはだけは間違いない事実だ。それに彼のその後の行動などを見ていても、どうにもそんな「天才」だとは思えない。
 こういう妙な自慢も、「自分は頭がいいんだ」という表現の一つにしかなかったのだろう。「神戸大学夜間」では、どこに行っても「頭がいいね」とは評価されない。だけど卑屈になれないから、こういう風に自分で自分に「IQ160」というブランドを張り付け、「大学名ではなく、このIQ160で俺を評価してくれ。どうだ、頭がいいだろう」と言いたいのだと思う。
 「俺は本当は頭がいいんだ」これを認めてほしい、この考えは僕と同じだ。
 しかし「ここにいては認められない。頭がいいってほめられたいなら、イチイチ自分で自慢したくないなら、良い偏差値の大学に行かなければならない、それなりのブランドをつけなければならない」ということに、彼らは気付いていない。いや、気付いているけど行動に移してはいないのだ。これではやはり、今までの夜間生と同じだ。
 そして入学した彼らの自慢のし合いを聞いた後、何となく「夜間脱出」めいた話になった。脱出と言えば、「編入」が一番現実的な手段かもしれない。だから彼らは「編入!編入!」と早くも燃えていた。
 
 ところがその後、彼らはその「受験」よりも簡単な「編入」でさえも、手をつけられなくなる。1ヶ月もたてば、そういう話は一切聞かなくなった。
 「イガ」は「この大学が好きになったから」と言うし、「ヒルマ」は「俺は勉強をやりにここに来たから、編入なんてくだらない」と返された。
 「ヒルマ」や「イガ」はこの後、「受験!受験!」と活発に活動しだす僕に、最後まで「くだらない」とか「何やってんだ」「やめろ」と妨害してくる。そして僕のワルグチを周りに繰り返し、ちょっかいをだす。
 1浪目にも言ったことだが、本当に「偏差値」や「夜間」に満足しているなら、僕が脱出しようとしても「無関心」のはずだ。
 しかし彼らはそうはいかないのだ。コンプレックスの塊だった。

 ただここでも言い訳が一番おもしろかったのは、IQだった。
 「編入はどうしたの」と僕が聞くと、彼は「やめた」という。
 その大きな理由は、「編入なんて簡単だから、そんなことよりももっと別の試験をやっているよ。レベルが高いことしようよ」というのだ。
 彼は現在「司法試験」を勉強しているらしい。司法試験合格によって、「自分は夜間だけど、司法試験に受かったんだ。すごいだろう」と言いたいのだろう。
 確かに編入試験はそこまで難しくはない。一般の入学試験に比べると簡単だ。教科数も英語と論文だけである。だからこそその気になれば、真っ先に手にできる勝利だ。「夜間」から抜けだし、堂々と自己紹介出来るブランド大学生になれる。
 ではどうして「編入」をやらずに、それより100倍くらい難しい「司法試験」などに手を出すのか。司法試験などは偏差値70の東大生でも苦戦するような、最難関の試験である。
 答えは簡単だ。彼はほんの少しの勉強も出来ないのだ。だから「編入」のわずかな勉強でさえ辛くて取り組めない。そんな自分をごまかすため、受かりもしない司法試験を、"一応"目指しているのだ。受かるためにやっているのではない。「そんな難関を目指しているんだよ、俺は」というブランドを、手にするためだけにやっているのだ。
 世の中にはこういうことがよくある。司法試験や官僚の試験といったハイレベルな場では、「記念受験」という人達が大半である。彼らは「受かる」ために受験するのではなく、「受験した」という証拠を得るために、やってくるのだ。「あぁそんなレベルの高い試験を目指してたんだ。すごいね」と言ってもらうために受験するのだ。
 本当に些細なブランドだ。しかし少しの勉強も出来ないIQにとって、この些細なブランドにすがりつくしかなかったのだ。編入をすれば楽になる。しかし勉強はイヤなのだ。それに編入はやればそこまで難しくないだけに、「受かること」が求められてくる。「受かる」「落ちる」がリアルに分かってしまう。勝負することになる。傷つく可能性も出てくる。
 ところが司法試験なら、「絶対に受からない」という結果がやる前から分かっている。だから勉強なんかしないでもいい。ただ「目指している」という、簡単に手に入るブランドがあればいいのだ。
 司法試験合格、これは受験の何倍もの努力が必要だ。だからこそ受験である程度頑張れなかった奴は、ほとんど受かるなんて事はないのではないか。事実、合格者のほとんどは偏差値の高い一流大学出身者ばかりだ。
 「学歴」とは「努力出来るか、出来ないか」の基準でないかと僕は思う。だから偏差値の高いヤツは、努力出来る。努力すれば様々なことが、自分のものになる。そういう風にして、彼らは一歩一歩階段を昇り、最終的に「司法試験合格」を手にするのだろう。
 もちろん「学歴」なんか関係なく、司法試験合格出来る人達もいるだろう。ただそういう人達は、相当の心がけと「絶対受かる。そのための死ぬほどの努力をしてやる」という熱意がなければならないだろう。
 僕はIQもそのタイプだと思いたかった。しかし違った。彼は大体2ヶ月程で、「司法試験」から「公認会計士」、「国家一種試験(官僚採用試験)」、「国税調査官試験」ところころ目標が変わっていったのだ。その度に「司法試験なんてやっぱつまらない」とか、「官僚試験なんか簡単。目指す価値なんかないよ」だとか、「口先」が先行し、僕を失望させた。
 しかも彼はその度に高い月謝を払い続けて、すべてムダにしていた。これではとても「IQ160の天才児」とは信じられないだろう。
 彼はもう「コンプレックス」の渦の中に飲み込まれていた。
 「夜間」という生活の中で、彼らのコンプレックスはさらに加速する。しかし最後まで行動は一切起こさなかった。そんな彼らだからこそ、僕は全員にとって「敵」と見られた。そういうことが大きな刺激となり、僕を異常な方向へと駆り立てていくのだった。


3、4月-6月。偏差値70からの大学受験スタ-ト!



 僕の目指すラインは、絶対合格の偏差値80ラインだ。では、いかにしてそんな未知なる領域にたどり着くか。
 そこで「どう勉強するか」ここで一年間のある程度のプランを決めることにした。

 ともかく確実に合格を狙うのには、「数学」だけしか3教科目の武器がないというのは、心細い。というのも去年の受験で分かった事だが、数学はギャンブル過ぎるということだ。模擬試験なら大体問題が30題近くある。その中には基礎からハイレベルな問題までたくさん入っている。だからパタ-ンを暗記すれば、基礎から標準な問題を完璧に得点し、6割程度稼いで、偏差値70近くは確実に取っていた。しかし一流大学の問題はハイレベルのみの4題しか出ない。これではパタ-ン暗記だけでは、とても応用できない。ギャンブル的要素が多すぎる。
 僕は覚えて覚えてひたすら覚えて、数学の偏差値を上げていったのだ。そんな数学的才能のない僕にとって、「一瞬でひらめく」という事が要求されている問題では、とても「安定」を持って対処できない。
 確実に一回の場で勝負を決めるには、第一に安定性が大事である。
 やはり覚えれば確実に得点できる、「社会」も勉強しようと思った。選択肢はあればあるほどいいに決まっている。ただ今からやるので、1年間では偏差値は60後半までが限界だろう。
 つまり来年の受験までに、英語国語は偏差値80。数学は偏差値70代。社会は60後半。ここまでやれば、早稲田慶応はもちろん、「東大」まで確実に見えてくるだろう。
 この時僕は、受験直前期の時と同じ勉強スタイルを続けていた。それは早稲田慶応などの一流大学の過去問題を、2回3回繰り返すというやつだ。この時は、早稲田慶応はほぼ全学部持っていたので、近くのコンビニに通いコピ-を繰り返していた。英語や国語はこの調子をキ-プした。
 これで実力が伸びるのか分からない。ただ勉強をやっていて「苦しかった、辛かった」この感覚を僕は大事にした。苦しい、辛いと自分が思っているならば、それはレベルの高い難しい問題で、力になっているという事だ。「簡単、ラクチン」と思っていれば、それは簡単な問題であり、たいして疲れるはずもない。従って力がつかない。
 そして問題は社会だ。ここで僕は公民をやることにした。理由は簡単だ。そうあの男、カズヤがやっていたからだ。
 この因縁の受験のキッカケは、カズヤだ。だから社会はカズヤと同じ教科を選び、カズヤと同じ条件で僕も合格してやる、と決心した。 
 勉強方法は分からない。予備校で分かりやすく解説してくれる授業を、取るお金なんてどこにもない。そんな事は関係ない。「ともかく覚えればいいんだろう。苦しめばいいんだろう」こう心に決めると、僕は4教科目に手を出した。理解とかそんなこと関係ない。参考書を片っ端から覚えていった。
 例えば「ケインズという学者は、ケンブリッジ学派に所属している」という項目があったとする。そうしたら、僕は何のことか分からないけどその名前を覚えた。問題で「ケインズはどこの学派?」と聞かれたら、答えられるようにだけした。その解答パタ-ンを覚えた。ケンブリッジ学派って何の事?って質問されても、もう分からない。つまり暗記しまくりで、立体的に理解したという訳ではなかった。興味なんか何もない。試験で得点出来るためだけの勉強法だ。ただ機械的に覚えてやった。
 「この教科に興味がある」だとか、「この教科を勉強していけば、大学に授業で役に立つ」とか関係ない。ウダウダ能書をたれている暇があったら、何でもいいから得点を稼ぎ、偏差値をとらなければいけない。そして合格しなければいけない。

 「不運」など起きえない驚異の偏差値をとり、1浪目の時の様な「逆の奇跡」が起きたとしても、それでも合格を確実に勝ち取る。これを目標にした、僕の「偏差値70からの大学受験」がついに始まった。「受験に絶対はない」はよく聞く言葉だ。しかし僕は、敢えてそれに挑戦を挑むことになる。
「どうすればいいか」
 そんな自問自答が繰り返されるなか、ついに2浪目最初の模擬試験がやってきた。
 「受験は才能」このジレンマに、ついに決着がつくときがやってきた。


4、夜間生が全国ランキングについに登場!
受験は才能ではない、迷いがフッ切れる!



 返却された6月の試験は、実情の成績がしっかりと出た。
 英語は偏差値77、8。国語は偏差値73。数学は67。公民66。
 当然早稲田慶応はどこ書いても、全て判定はマックス80%のA判定。国立の一橋大学でさえ、1000人の全志望者中、第9位の位置までにいた。

 僕は確かな自信が沸き上がってくるのが感じた。
 こんな数字、僕は2年前には想像もつかなかった。「偏差値70後半」なんて「天才」だと思っていた。
 ところが僕はついにここまでやってきた。全国ランキングにも名前が出ている。「天才」でしかたどり着けないと思っていた場所に、僕自身が立っている。そうここまで勉強すれば、誰でも取れる成績だったのだ。
 「受験に合格できるか」は分からないが、「偏差値」だけは誰でも取れる簡単なことだった。世間で目の敵にされる様な、「タチノワルイ」ものではなかったのだ。むしろ「正々堂々」としていた。
 「僕はもうだまされない。受験は才能じゃない」と決心してからは、もう迷いはなかった。
 「このままずっと勉強し続けてやる。そして偏差値も上げまくってやる」

 そしておかしな事だが、勉強は楽しくなかったものの、この時から模擬試験は楽しくなった。それは何故かというと、「偏差値がとれるようになった」からだ。
 例えばこういうことだ。僕は陸上部で、長距離が得意だ。学校の体育の授業で、みんなが嫌う「長距離」になった時、僕だけは楽しみだった。みんなよりタイムが速くて、活躍出来るからだ。自分が得意だったら、どんなものでも楽しくなるのだ。こんな感覚みなさんにもあるだろう。
 信じられないことだったが、「勉強」にもそれが通用した。つまり何のこともない、「勉強」も「スポ-ツ」と同じで、何も「神秘的」なものではなかったのだ。
 後に塾で講師をやった時のことだ。そこでは、わざわざテストの点数を生徒に隠し、彼らを傷つけない様に、かなり気を使ったりした。「やりたい勉強、偏差値で学校を選ぶな」相変わらず、こればっかりだ。「差別化」は絶対厳禁だった。ではサッカ-の授業で、差別化しないように、上手い奴はテントの中へ隔離したりするのだろうか。それでは誰も上手くはならないだろう。
 「勉強」も「サッカ-」もみんな同じだ。サッカ-でも練習がイヤで、試合やゲ-ムが楽しみなように、勉強でも毎日の勉強がいやだけど、ゲ-ムである「模擬試験」は楽しみだ。だからその試験のために勉強していく。その結果一番嬉しい「合格」がある。それだけのものだった。
 それなのに何で「勉強」はすごい事、特別なものと見られるのだろうか。僕はここまで勉強していく事で、自分が教えられてきた「勉強像」が、かなり間違いである事に気付いた。

 ついに僕は偏差値70から走り始めた。見たこともない世界がそこにあり、僕は様々な体験をすることになる。「良い大学」に受かって、人から認められたい、そして何より、自分で自分を認めたい、こう強く願っていた。その気持ち僕をここまで動かした。
 そして「絶望」と思われた「合格」も確実に目の前に現れた。迷うことはない。やり続けるのだ。「合格」する、「脱出」する、僕は確かな手応えを感じた。


5、偏差値80を目指す夜間生。
これが僕の狂った受験勉強スタイルだ!



 シンジさんは僕の知る中では、唯一コンプレックス正直に認め、正々堂々戦っている人だった。
 関西での最大規模での編入模試でも、論文ランキング2位。英語も受験時代から偏差値70。編入試験の内申書である、大学の成績はほとんどA。つまり彼は編入において死角がない。必ず合格するラインにいた。
 やることは何でもやる、身近な編入から確実に決める、そういう強い意志が感じられた。そんな彼を僕は尊敬し、彼も僕を尊敬してくれた。
 僕はシンジさんとしょっちゅう一緒に勉強していた。一人で勉強していると、本当にイヤになってくるが、彼と勉強していると「自分もさぼれない」と闘志がわいた。それに何より、「孤独」が紛らわされた。
 それでもやはり勉強は、楽しいものではなく、「苦痛」だった。
 静かな場所で机に向かって勉強するという事に、僕はもはや耐えられなくなっていた。そりゃそうだ、2年近くも受験勉強をしているからだ。その状況におかしくなりそうだった。楽しいことなんて何もない。限界といえば、限界だった。
 だからなるべく外で勉強するようにした。ざわざわしている大学の食堂が、「人恋しい」気持ちを癒してくれて、一番勉強しやすかった。
 朝9時くらいから自宅で3時間ほど勉強し、気分転換もかねて大学に移動する。そして昼の1時から、合流したシンジさんと、大学の授業までひたすら勉強。さらに夕方から始まる夜間の授業中も、まるで高校生の内職の様に、勉強し続けた。最後に家に帰っきて、夜の11時から深夜の1時くらいまで、また勉強。ト-タルで相変わらず10時間ほどはやっていた。
 ところが一つ問題だったのが、「お金」だった。親は僕がまさかまだ受験しているなんて知らない。だから普通にバイトもしているだろうと考えて、大体一月に4万円くらいの食費を、仕送りしてくれた。普通に考えればこれは当然の額だが、受験勉強をしている僕にとって、少し問題があった。
 月4万なら、一日1000円ちょっと使えるわけだが、僕は受験勉強に過去問題コ-ピ-を大量にしていたので、ここでお金を使ってしまった。
 大体一日に軽く50枚以上はコピ-していから、そうすると残りの食費は500円から700円程度になってしまう。だから朝は抜いて、昼と夜は200円ちょっとの食事になった。
 大学ではほとんど毎日、一杯220円のラ-メンを食べたりしていた。夜はハンバ-ガ-かカップラ-メンが多かった。安くて腹のはるものなら何でもよかったので、ある時は「柿の種」を大量に買い込んで、一週間ほど夕飯は毎日「柿の種」を食べたりした。
 それだと栄養的にかなり問題があるので、最後は「自炊」に落ち着いた。お米を10キロまとめ買いして、毎日少しずつ炊く。そして白米の上に、おかずを一品のせるだけ。そのおかずは豆腐や納豆、ノリ、生卵などが多かった。そんな「穀類生活」に耐えられず、どうしても肉が食べたくなって時は、ハンバ-ガ-の肉を取り出して、おかずにしたりしていた。
 また新しい過去問題集を買ったり(1600円程度)、模擬試験を受験したりする時は(4000円程度)、もう大変だ。どうしようもないくらい生活が苦しくなったりした。
 親に一言「受験するから、お金くれ」と伝えれば、すべては解決する問題だが、1浪目は散々ワガママをさせてもらった身だ。それでも合格しなかった。口が裂けても「2浪する」なんて言えなかった。何よりそんな惨めな自分を見せるのはイヤだった。そんな恥ずかしい自分を見せるくらいなら、黙って勉強する方がよっぽどマシ、と思った。
 ところがこんな「受験貧乏」は、僕だけではなかった。僕よりももっと悲惨な人がいた。それはシンジさんだ。彼は編入の予備校に通っていたので、お金が大量に無くなっていた。当然勉強からバイトする時間もなく、本当に貧困だった。彼も僕と同じ様な予算で、食費を立てていた。
 彼は大学ではほぼ毎日、120円の中ライスに、60円の小さいメンチカツ一個を注文し、ケチャップをかけて食べていた。200円にも満たないその食生活は、本当に質素で、「こんなクサイ飯食うのも、今年限りにしたいですよ。早く抜け出したいです」といつもこぼしていた。
 栄養のことなど一切気にしない彼の夕食などは、もっとひどいもので、カップラ-メンなどは当たり前。ポテトチップスを20日間食べ続けたり、チョコレ-トのお菓子で一週間暮らしたりと、もう何でもありの状況だった。
 彼は神戸に来てから、1年間チョイもこの生活を繰り返していたため、体が既にボロボロだった。いつも食べ物が入ると、お腹がおかしくなって、トイレに駆け込んでいた。その光景はいつも異様だった。
 彼は言った。「もうこんな夜間に居たくないです。コンプレックスに疲れました。人間はこんなもんです。合格はしたいけど、これから長くは生きていたくはないです」と。少し自虐的な感情があったシンジさんは、この生活を苦とせず、むしろあえて自分の身をこの様な状況に置いて、傷つけているとしか見えなかった。
 僕は彼を止めることは出来なかった。夜間に身を置く「クサイ」僕達は、昼間の連中が楽しそうにおしゃべりをしながら、爽やかにゴハンを食べているその横で、同じように美味しくゴハンは食べれなかった。それが現実だ。「夜間」を抜け出さない限り、コンプレックスに陥った僕達は、ゴハンでさえ美味しくない。まして幸せには絶対なれないのだ。今年は徹底的に腐るしかない。
 信じられないくらいに、僕達の考え方は曲がっていた。しかしこのネジ曲がった考えは、その異常さゆえ、本当に力になった。自分を極限にまで追い込むことが出来た。
 僕達はこんな自分たちの活動を、勝手に「サ-クル」化した。
 その名は「脱出部」。コンプレックスから抜けだし、真の「自分」を獲得するのが目的だ。別に何かイベントをするわけではない。ただただ毎日ひたすら勉強するだけだ。
 大学側に公式に認めてもらおうと思ったが、やめた。怒鳴り帰されるのがオチだからだ。 こうして二人だけの「脱出部」が幕を開け、共に壮絶な戦いに挑んでいく事になる。
 去年のカズヤさんとの1年間とは全く違う、ドラマが始まったのだ。