偏差値70からの大学受験 序章・大学1年生編

序章

「何のために勉強するのか」
日本で一番腐ったドラマは
「受験」で起きた!


 今、人々は真実に飢えている。ごまかしや虚飾に満ちた、上っ面だけの「理想論」にはもう誰も見向きはしない。
 そんな時代の風潮の中、何故か「勉強」だけは未だベ-ルに包まれ、真実は語られない。学歴社会へのバッシング、ゆとりの教育から週休2日制の導入、それに反比例するかのごとく、増え続ける子供への高額な教育費。TV、本、雑誌などのメディアでは、「勉強は個性をつぶす諸悪の根源」だとか、「学力低下をふせぐため、絶対に勉強は必要だ」とか、意見が錯綜を極めている。
 これだけ熱く語られている事から分かる様に、「教育」とは世間が相当の関心を寄せている、一つの「大命題」なのであろう。当然だ。親にとっては、我が子の大切な人生である。無視できるはずがない。
 日本は未だに学歴社会だ。神話は崩壊を見せているとはいえ、その城壁は揺るがない。
だからこそ世にも腐ったドラマ、それはそんな世界で起きた。「教育」に巻き込まれて起きた。人間が人間としての欲望の原点を追いかけ、日本のトップを果てしなく夢見た男がいた。そのためなら何でもやり、どんどん性根が歪んでいった男がいた。
事実こそ奇なり。これから語る話は実話である。そして誰にでもいつでも起きうるであろう、そんなリアルに溢れたドラマである。
 単なる合格体験記とは全く違う、これだけは最初に断っておきましょう。何故ならそのような上等なものとは、これは全く異質な読み物だからである。
そんな世にも腐った世界に、今から少しだけお付き合い願いたい。

 ある日の事だった。春から教師になる、卒業を控えた大学の先輩が、僕にこう言った。「世の中は偏差値じゃないよ、生徒には自分のやりたい事をやらせなきゃ駄目なんだよ」、と。
 その時、僕はあの戦いで培ったアツい思いが、一気に吹き出した。「やりたい事?誰もが遊ぶことって言いますよ。生徒にその区別がつくんですか」、そう強く反論した。彼は何も返せなかった。

 「そういえば教師って、いつもこんな事言ってたな」、僕はそう思った。もちろんこの意見は素晴らしい。ただこの「理想論」だけが、教育界にはびこることが僕にはたまらなかった。様々な考えがあってこそ、道は開けるはずだ。
 自分でも忘れかけていた、あの「ドラマ」が再び蘇ってきた。
 あんな異次元の「ドラマ」は、誰も分かってくれないだろう、そう考え封印したつもりだった。しかしその時の僕はアツくなっていた。「異常、だけどそれ故新しい、だから語るべきなんじゃないか」、そう決心した。
 この執筆は、そんな単純なきっかけから始まる。

 誰にも伝えることの無かったこのドラマ」を、初めてここで明かすことにする。

その先にある答えは「何のために勉強するか」、もはやこれだけではない。日本で一番腐ったドラマは「受験」でおきた!そしてもう一度言う、これはいつでも誰にでも起きうるそんなリアルと危険をはらんだドラマなのだ!



1、僕は普通の高校生だった。


 僕は普通の高校生だった。

 よく目にする、「俺は落ちこぼれだった」「ワルだった」とかいうタイプとも、僕は当てはまらず、かといって「僕は天才的に頭が良かった」「全国模擬試験でトップとった」という様なタイプとも、まるで違った。
 この時までは、ごくありきたりの高校生だった。本当にどこにでもいる、普通の高校生だった。
 この話はここから幕を開ける。
 そんな普通の高校生が、大きく変わっていく。
 「ワル」や「天才」という様な人なら、高校時代、それよりもっと前から、人生ずっとドラマだ。恋愛、ケンカ、友達、青春、何やっても、彼らはドラマだ。僕はそんな様々なドラマを、「本」や「TV」で見るくらい。そんなのを見ては、「憧れの世界」「非現実」そんなイメ-ジを抱えた。「すげぇな」いつもそう思っていた。
 この時まで僕は、「自分もあんな青春してみたい」そう心の中で思っている、いわゆる「フツ-人」だった。しかしまさか僕にも、そんな「ドラマ」が待っているとは、思いもよらないでいた。
 そんな僕を大きく変えたのは、「受験」だった。
 日本という国では、「受験」は「個性を奪うもの。真の人間性を奪うもの。くだらない。」などと、マイナスイメ-ジで語られることが多い。しかし僕は、そんな「個性を奪う、くだらない」ものによって、初めて自分が他人より一歩抜けだし、「自分が何者であるか」考えることが出来た事は、嘘偽り無い。あくまで僕の人生の大きなタ-ニングポイントは、そんなくだらない「受験」だった。 

 僕の高校は東京にある私立高校。レベルは中の上と、やはり「普通」の高校だった。
 そんな楽しく平和な毎日を送り、平凡であった僕の人生が、ある「大学名」との出会いによって、大きく動き始める。
 その名は「国立神戸大学経営学部夜間主コ-ス」、つまり神戸大学二部である。
 皆さんはこの名前をご存知だろうか。昼間の神戸大学経営学部といえば、関西の名門国立大学の看板学部であり、英国数3教科偏差値63の難関である。
 ただその名門にぶらさがるかの様に、こっそりと「夜間コ-ス」が設置されている。偏差値たった英語1教科で偏差値60。偏差値的に言うと、大体昼間に入学する勉強量の三分の一で済むわけだ。しかも卒業証書には、「神戸大学卒業」としか書かれない。つまり社会的にも、「夜間」であることがバレないのである。
 僕はこの話を、当時通っていた塾の担任から聞かされた。忘れもしない、高校3年生の暑い夏の日だった。その時、僕は動揺していた。
 中学まで関西に住んでいた僕にとって、「神戸大学」というブランドの輝きは、眩しすぎるものだった。東京で言えば、東大の次に早稲田慶応という様に、関西では京都大の次に神戸大学として、その地位を確立している。親達子供達は誰もが神戸大学に憧れ、近所でも「ダレダレさんの息子さんが受かった」という噂は、瞬く間に広がり、羨望の眼差しで見られた。
 「昼間」の神戸大学合格など、今のこんな僕には「夢」の様な話である。
ところが信じられないことに、「夜間」ならば、その栄光を現実的に掴む事が出来る、そう分かったとき、僕の価値観が大きく崩れ始めた。
 これから先、何事もなく僕は平凡に人生を送っていくのだと思っていた。ところが目の前に、「エリ-ト」という輝かしい道が現れたのだ。
僕の偏差値は全く平均の50程度。ただ英語1教科くらいだったら、60まで上げるのには無理はない。時間は、あと半年近くある。
 一流とは言えない僕の様な「普通」の偏差値で、誰からも尊敬される「一流大学」に合格できる、こんな夢みたいな話があるのだ。僕の心の中で、醜い人生の本音がざわめきだした。
「自分の夢、やりたい事って何だろう」、こんな綺麗事はどうでもいい。
そんな事よりも「最高のブランドを手にして、人からほめられたい」、ただそれだけだった。「神戸大学夜間」、この名前を聞いたとき、僕はそんな本音に気付いてしまった。今だったら、普通の人生から、誰からも羨ましがれる人生へと乗り換えられる。そう考えると、僕はもう何も見えなくなっていた。
「偏差値」も確実にブランドだ。そしてやはり人間、ブランドが大好きなのだ。
「偏差値」ブランドは憧れのまとながらも、バッグや時計などと違って、「偏差値」は金で簡単に買えず、相当の努力をしなくちゃ得られない。だからこそ、みんなだんだん妥協してあきらめていく。努力したくない分、楽したい分、志望の大学を下げていく。
ただ卑屈になれないから、そんな自分を肯定したいから、怪しい「ヤリたいこと」をでっちあげて、「偏差値よりもこの大学を選びました」などと収まるケ-スが多い。
名前を得るためだけに、僕は神戸大学夜間に入学した。付属大学への進学を辞退し、「平凡な人生」を捨てた。
 
冷静に考えれば、「神戸大学夜間」というのは、数ある夜間大学の中で、偏差値的には日本トップであることは間違いない。もちろん「夜間」での話だが。
つまり「神戸大学夜間」に入ってくる学生というのは、別にそこまで頭が悪いわけではなく、ただそれでも「デキる」という訳ではない。「神戸大学」の名前につられた、偏差値的には「中の上」なものばかりなのだ。だから問題なのだ。
 「定時制の高校」なら、正直偏差値的にはそこまで高くない。しかしこの「神戸大学夜間」というのは、「定時」なのに偏差値はそこそこ高いのだ。この「日本トップの夜間」では、様々なコンプレックスに溺れた、とんでもない連中がたくさんいた。それはそういう特殊な環境ゆえなのかもしれない。

 ついに僕のドラマが幕を開けた。この「日本一の夜間」という特殊な環境が、少しずつ全てを狂わせ始めた。
 皮肉なことに、僕の本当の意味での「受験」は、ここから始まったのだ。





1999年 大学生





2、1999年4月 これが日本一の夜間だ!


 新入生説明会で手にした学生証には、「神戸大学経営学部在籍」と書かれ、そこに「夜間」の文字はなかった。僕は後ろめたい気持ちを抱えながら、「ついに神戸大学生になれたんだ」と自分に言い聞かせていた。
 神戸大学夜間コ-スは、経営学部、法学部、経済学部の3つからなり、それぞれ人数は50人程度。普通の大学だったら、1学部に500人程在籍し、まず全員の顔を覚えることはありえない。ところが我ら夜間は人数も少ないので、ほとんどのメンバ-と顔見知りになれる。「夜間」だけあって、そのキャラクタ-は衝撃的だった。
 まず自己紹介では、大抵の学生は「どこどこ大学を落ちて、夜間にやってきた」と、始めた。「俺はここにいるけど、本当は頭が良いんだよ」という、彼らのプライドを痛いくらい実感した。そして初日から「夜間脱出」、他大学へ3年生から移る「編入試験」の話で盛り上がった。
 前に座る女の子達の話に耳を傾ければ、「私受験で第一希望落ちたけど、夜間が大好きなんだ。落ちたけど私の人生、夜間に来た方が良かったんだよ」と慰め合っている。
 僕の仲間はどんどん増えていったが、その中にも普通の同年代の学生に混じり、バラエティ-に富んだクラスメイトが一杯いた。夜間生にはどの様な学生がいるのか、読者の皆様も興味があるだろう。
 まずカルチャ-ショックだったのが、クラスには一見40代の「主婦」の様な、奥様がたがいた。他にも一度大学を出て。再度夜間に入学した27才の男。2浪して夜間に入り、後にベンチャ-企業を起こして、夜間を退学するベンチャ-君。コンピュ-タ-と二か国語を使いこなす、中国出身のチャイニ-ズ君。
「夜間」ということでそのメンツも色とりどりだった。「普通」だった高校時代から考えると、見たこともない世界だった。
 授業は夕方の6時から始まる。六甲山の中腹、標高400メ-トルに位置する大学は、自然に囲まれた最高の環境にあった。夕焼けの中、昼間の大学生が楽しそうにおしゃべりをして、山道を下ってくるのを横目で見ながら、僕達夜間の学生は山道を上っていく。何故か良い気分がしない。「普通の神戸大学生とは違う」、そう言われている気がするからだ。そうして授業が終わるのは、もう真暗な夜の9時である。
 一週間もたたない内に、「何か違うな・・・」と思い出した。
 僕が今まで生きてきた世界とは全く違う世界。僕が勝手に思い描く「さわやかなキャンパスライフ」とは明らかに違っていた。
 昼食を学食で食べ、ファイルケ-スを抱えながら、昼のまぶしい光の中、急いで授業に向かう。このイメ-ジとはかなりかけ離れていた。サークル活動も夜間生は時間的に参加しづらい。
僕はこの夜間に通うたび、大学に対する満足は、早くも薄れていった。
 確かに授業のレベルは文句ない。
ただ僕が言いたいのは、そんな高度な事ではなく、「神戸大学には入れた・・・ただ楽しくない、普通ではない」という、下らない事なのである。
 僕の「受験」は本当に終わったのか、こんな疑問さえ抱くようになった。
 
 こんな僕に、これからのドラマを作り上げる、二人の男との出会いがやって来る。その名はシンジさんとカズヤである。これが全ての始まりであった。
 入学式からわずか3日目。いつもの様に教室に入ると、一見するとどこにでもいそうな、「真面目タイプ」の男が声をかけてきた。
 「授業はここの教室でいいんですよね」。
 彼がシンジさん。その横にはやや小柄で、おとなしそうな男がいる。彼の名がカズヤだ。
 高校時代には交流したことないタイプの彼らだったが、僕らは何故かうちとけた。それは彼らが、とてもおもしろい事を考えていたからだ。
 年は一年先輩であったシンジさんは、東北出身。浪人して国立東北大学を狙い、不合格。関西の有名私大への合格は決めていたものの、この神戸大学夜間に、「昼間に合格した」と地元では偽って、入学してきたらしい。
夜間に決めたその理由は、昼間に編入試験の勉強をするためである。彼は僕が感じていた、夜間に対するコンプレックスを正々堂々と認め、編入試験の予備校に通っていた。口先だけの他の学生とは違い、実際に行動に移していたのだ。
 「編入試験」とは、入学後目指す勉強の方向性が違った学生のために、2年生の秋に試験を受け、3年生から他大学に移行するというシステムである。後々分かった事であるが、受験生の大半は、「やりたい勉強」というより、「偏差値の高い大学に行きたい」という、欲望から受験するという。つまり「敗者復活戦」のニュアンスが強い。
 シンジさんは、夜間に入学後迷わずこのチャンスに挑戦していた。
 「夜間を2年後に抜けだし、東北大学、そして京都大学を狙っています。偏差値の高い、自慢できる大学に行きたいんですよ」と熱く語った。
 「自分が満足したいなら、夜間だとか学歴だとか気にしないで、正々堂々自己紹介出来る、偏差値の高い大学に行けばいいんだ」、僕は正直になれた。
 そして次にカズヤの話を聞いた。この時はまるで気付くはずもなかったが、このカズヤこそが、シンジさんよりもこのドラマを大きく動かすことになるのだ。この時点での印象からは思いも寄らない事であった。
 彼は僕と同年代で、シンジさん同様東北出身。そして彼は編入より、来年すぐ受けられる「再受験」を考え、昼間は予備校に通っていた。彼は言った。「東京にあこがれてまして、来年には東京の大学などを受験しようかと考えています。一年浪人をするかわりに、「保険」として夜間に入学しました」。
 
僕はこれらの話を聞いて、「もう一度やってみようか」と思う様になった。昼間は暇なのだ。勉強しようと思えば出来る。受験は終わっていない。
「もう一度受験するという事は、コンプレックスに陥った自分を救う事になる」、そう考えると行動は早かった。親に頼み込み、昼間はカズヤと同じ予備校に通うことになった。

 

3、夜間はクサい!?


 そんな2重生活の中、最初の模擬試験がやってきた。
現役の貯金もあり、英語は67という偏差値をとれる様になっていた。
 続いて国語、偏差値は67。問題ない。
 最後に数学だが、これは苦戦した。やはり基礎が出来ていない。偏差値59。まだまだ一年間頑張っていこう。こういうところだろう。
 この模擬試験の結果を、「話題のタネに、、、」と軽い気持ちで大学の連中に見せてしまった。しかしこれがおおいにまずかった。
通称「王将」というヤツに、まず見せてみる事にした。
彼は龍国大学(偏差値50)から仮面浪人して、この「夜間」に入ってきた人で、「この神戸大学夜間にはい上がってきた」ということに誇りを持っていた。
当然といえば当然なのかもしれないが、王将にとって、僕らの「仮面浪人」「模擬試験」の話はおもしろくない。僕達が王将の入ってきた「神戸大学夜間」を否定しているからだ。「この夜間にはいたくない、他の大学に行きたい」などという僕の考えは、彼を不快にし怒らせてしまった。
 僕をイヤな目でにらみつけると、彼は関わりたくないと言わんばかりにサッサと行ってしまった。
僕達の仮面浪人の噂は瞬く間に広がった。
 全員いい気はしなかったらしい。今考えてみると当然なのかもしれない。
 しかし大学生というものの姿が少し見えてきた。僕は大学生になったら、僕達みたいに仮面浪人じゃないかぎり、「偏差値」という概念はなくなるものだと思っていた。
 もちろん受験では「偏差値」は目標だが、大学生となればそんなものから開放され、大学で勉強を極めていくもんだ。別に僕達が「偏差値が高い大学に行きたい」といっても、みんな「へぇそうなんだ」という位で、さほど気にしない僕は思っていた。
 しかし現実は違った。彼らはイタク気にしていた。「もう一回受験するんだって?」と聞いてくるヤツもいたし、陰で「仮面浪人生」と噂していたらしい。その表情にははっきりと「良くは思っていない」というのがにじみ出ていた。そんな事は、ニブイ僕にでもはっきりと分かった。
 
こんな話がある。僕達の友達に「バクダン」というヤツがいた。彼は同期の夜間生だ。彼は教科書を買うため、大学の教科書売り場に行った時のことだ。そこで彼はショッキングな出来事に出会う。
 売り場では、昼間学生用と一緒に夜間学生用の教科書を売っており、レジごとに「昼間・経済学部」とか、「昼間・経営学部」とかフダを貼って、学生達は自分の学部ごとに並んで買うことになっていた。ところが当然「昼間」というコ-ナ-があるんだから、「夜間」というコーナーもある。
 そこでバクダンは、その夜間のレジに並んでいた。そうしたら、隣の「昼間」の列に並んでいた女の子達が、バクダンの方を見て、「あれ夜間の学生だよ。夜間はクサイ。」と話していたらしい。
もちろん大声で聞こえる様に言ったのではない。彼女達は仲間同士で話していたのだ。しかしそんなショッキングな話は、いくら大きな声ではないとはいえ、バクダンには否応無く耳に飛び込んでくる。彼はこの一件でえらくショックを受けてしまった。
 「夜間はクサイ」。この言葉は本当にキツい。僕もこの話を聞いて、本当にショックを感じた。
 彼女達が言うには、夜間はまず昼間と違って偏差値も低く、そして何より普通の大学生でなく、夜に活動する。昼間の学生が帰るころ、サ-クル活動が始まるころ、コンパで盛り上がっているころ、夜間の学生は登校し、授業を受ける。こんな僕達夜間生の暮らし、身分が「クサイ」と感じているらしい。
 確かにこんなヒドイこと、差別的なこと考えている昼間の学生はそうたくさんはいないだろう。しかし、そう考える学生達がいてもおかしくないという事だ。
彼らは昼間の神戸大学にプライドを持っている。当然だ。偏差値も高く、なおかつ爽やかな、絶対自慢したい学校である。そんな神戸大学にあこがれ、苦労して入学したのに、そこには同じ神戸大学なのに偏差値も低く、自分たちよりも簡単に「夜」に入ってきた連中がいる。
 認めたくない。こう思う連中も少なからずいるだろう。僕だってもし昼間で入学してきたら、これと同じ「認めたくない」という感情を、「夜間」に絶対抱く。昼間の神戸大学に入学するのに、苦労すれば苦労するほど、そう感じるだろう。
 
 こうなると夜間生の方は必然的にコンプレックスを抱く。もしかしたら偏差値が低くても、昼間の大学に入学した学生なら、「まわりも全員バカ」という事で、誰もコンプレックスを抱かないかもしれない。
 しかし神戸大学夜間では話が違う。キャンパスのありとあらゆるところに、偏差値が高く、そして大学生活を爽やかに送る「昼間の神戸大学生」がいる。極めて特殊な環境だ。
 嫌でも「夜間は普通とは違う」と実感出来てしまう。
「君どこの大学?」って聞かれたら、僕達夜間生はまず「神戸大学」と答える。
そうすると大抵は「へぇすごいね」と褒めてくれる。しかし罪悪感に耐え切れず、「夜間だけど」ともらしそうになる。ただ自分を低く見られるのがイヤで黙っている。こんな経験を大抵の夜間生は体験している。
だから心の底から、「正々堂々自分を紹介したい」って考える。
 つまりほとんどの夜間生はこうしたコンプレックスなのだ。
つまり大学生になりたくても、なりきれなかった者達なのだ。
 僕はそれにピッタリあてはまる。
しかし彼らと僕が明らかに違ったのが、僕は正々堂々そんなコンプレックスを認め、「抜け出たい」と行動をおこしたという点だ。
 ところが夜間の学生のほとんどは、そんなコンプレックスを抱えながらも、全然行動に起こさない事が、この時分かった。
 僕はこの夜間に絶対居たくなくなった。「ここに居るわけいかない。抜け出したい。」この気持ちがより一層強くなった。
 そもそも大学との両立をはかって、全力投球で受験勉強に打ち込めることが出来るのだろうか。本気で確実に抜け出すならば、大学なんかに通っている場合ではないだろう。受験に集中しなければだめだ。もしこのまま大学も保険として授業を受け続け、しっかりと単位なんか取っていたら、受験の方が失敗するかもしれない。僕はそう思う様になっていった。
僕は大学を休むことにした。
親には休学ということで許してもらった。来年受験に失敗したら戻ってくるという条件で。でももちろん戻ってくる訳にはいかない。絶対合格。この言葉が胸に突き刺さった。


4、1999年7月。見知らぬ土地での受験勉強。
共に過ごす友達はカズヤだけだった。 


 カズヤと僕は、大学には一切顔を出さなくなった。今まで大学ではシンジさんとは会っていたが、僕らは予備校に一日中いりびたる様になり、あまり会わなくなった。会う友達といえばカズヤだけだった。彼は、授業がない日でも自習室に通うため、予備校にやってきた。そしていつも一緒に行動していた。
 
しかしこの頃最もつらかったのが、「孤独」であった。
 僕達は地元ではなく、遠く離れた見知らぬ神戸という地で浪人生活を送っていた。地元の友達、高校時代の友達など一人もいない。笑い合う仲間も、応援してくれる家族さえもいない。一人だ。ただひたすら一人だ。
 そんな中、唯一の友達というのがカズヤだった。
 特に受験が加速し出してからは、まともに話をするのはカズヤだけだった。毎日、人間と交流するのは彼だけだった。友達は彼しかいなかった。
ただし家ではそんなの関係なく全くの一人だ。ご飯を作ってくれ、応援してくれる家族もいないし、冬の毎日は心まで寒い。ただ僕にはネコが一匹いた。
 家では彼しかいなかった。いくら予備校で勉強するとはいえ、僕は10時間中半分の5時間は家でこもって勉強していた。
 だからこのネコにも本当に助けられた。みなさんはおかしいかと思われるかもしれないが、このネコとも親友だった。なんせ家ではこのネコとしかいないからだ。狂った環境ゆえ、こんな感情を僕は持ってしまったのかもしれない。
 ただ当時の僕は本当に、話す相手、交流する相手はカズヤとこのネコしかいなかった。心のよりどころはここしかなかった。
 「むなしいね」「あわれだね」誰もが僕のことをそう思うだろう。その通りだ。だからこそ僕はここから抜け出さなければ無かった。勉強しなければならない。今すぐ机に向かわなければならない。
 僕はもし「浪人する」というなら、やはり自宅が一番いいと思う。寂しくなったら家族がいるし、地元の友達がたくさんいる。絶対孤独な「一人暮し」での浪人生活は勧められない。
 季節は夏が過ぎ、冬がやってきた。身も心も寒い冬だ。


5、1999年11月~2月 絶対抜け出てやると心に誓う。
受験勉強ラストスパ-トへ!



 受験勉強といえば、順調だった。
 
 12月の段階での最終成績判定は、英語国語数学3教科で偏差値67。英語数学2教科で68というところまできていた。
 志望校である早稲田の政経は3教科67。慶応の経済学部は2教科66。問題ない。確実に「脱出。合格。」この文字が浮かび上がってきた。これならいける、と自信がついてきた。
 ただ確実性をさらに強固なものにするため、受験校を6校も増やした。万全を期したい。やりたい事は夜間を脱出して、遊ぶこと。何よりも夜間に帰ることだけは許されない。
だからこそ偏差値で「これは!」と思えるところを片っ端から受験することにした。
学部とかは関係ない。偏差値を基準に志望校を選んだ。当然だ。だって偏差値を追い求めてこの一年間受験勉強を続けてきたのだから。「偏差値の高い大学に行きたい」全てはここだ。
 2000年2月、ついに受験が始まった。
 


6、受験本番、脱出を目指し全力をぶつける!
そして衝撃の結末が待っていた!


結果発表。
 信じられない結果が僕のもとに次々とまいこんでくる。
 上智大学法学部(偏差値66)
早稲田政治経済学部不合格。(偏差値67)
 慶応大学経済学部不合格。(偏差値66)
 早稲田商学部不合格。(偏差値65)
 中央大学法学部不合格。(偏差値65)
 僕は何がなんだか分からなかった。「何故なんだ!」「どうしてなんだ?」こう叫ぶしかなかった。「奇跡で合格する」というのはよく聞く話だ。しかし僕のは「逆の奇跡」だ。受かるべくして受験を試みたぼくだったが、奇跡の様に落ち続けた。
僕は結局全ての大学のキャンパスに足を運び、この目で合格掲示板を眺めた。
 どこの大学でも、「合格できる」「やりきった」という思いで目を凝らした。しかしことごとく番号はなかった。信じられない。ただこの一言だった。
僕は正々堂々頑張った。偏差値は60後半は確実にとれるまで頑張った。「夜間」から抜け出すため10時間必死に頑張った。この一年間、大学生として何にも楽しいことはなかった。それだけ頑張ったんだ。
惨めだ。その時の僕を見れば、誰でもそう感じるはずだ。
 真剣にやって、それでも勝負に敗れた時、そんな本当にショックを受けた時は、僕は泣くものだと思っていた。しかし違った。本当にショックな時、人間は黙るしかないのだ。


7、2000年3月。「失意の都落ち」・・・しかし悔いはなかった。



 落ちただけでは、全て終わらなかった。その結果を家族、地元の高校の友達に知らせなくてはいけない。こんな屈辱はない。僕は耐え切れなくなって、早稲田商学部合格発表のその日に、もう東京を離れることにした。この東京にいるべき人間ではないと感じたのだ。 家族や友達にいくら話しても、僕の一年間は分かってくれない。そりゃそうだ。彼らが僕を評価するのは、「結果」だけ。だって僕がやってきた神戸での過程は、彼らは一切知らないのだから。偏差値がこうだった、これだけ勉強した、こんなことはどうだっていい。そんなことに彼らは耳も貸さないし、どうだっていいのだ。唯一聞いてくれるのは、「結果」だけだ。
 だから結果である、「全敗」という事実を見れば、彼らにとって僕は、一年間何も勉強をしていない「愚かもの」という事になる。
 そんなことはイヤでも分かったから、僕は逃げ出すしかなかった。誰かに分かってほしかったが、誰も分かってくれる人はいない。それが僕に突きつけられた現実だ。
 
 早稲田の合格発表のあと、僕は神戸に帰る準備をしていた。そんな時、僕に一本の電話が入ってくる。カズヤからだった。
 彼は早稲田のみ全学部受験が終わり、今神戸にいるらしい。今日は受験した全ての学部の合否を一気に、電話で確認していたということだ。
 彼の声、状態は僕と同じものだった。彼も商学部教育学部、法学部に立て続けに落ちていた。「仕方ない。力がおよばなかった。」彼はそうこぼしていた。
 本当は政治経済学部(偏差値67)の第一希望の発表もあった。しかし商、教育(偏差値65)を落ちた段階で、「もう政経はないな。これ以上不合格という結果を知りたくない。」ということで、彼はショックのあまりそこで電話を置いたらしい。
二人で話した。「夜間を抜け出すというのは、本当に難しい。」
 
僕にはもう後悔はなかった。カズヤと一緒にやっていこう、そう心から思った。

 

8、親友カズヤの合格!狂おしいほどの嫉妬!
「自分が何をしたいのか」に気付く!



 次の日の昼、僕はカズヤの携帯電話に連絡した。これからのことを話し合うために、まずは会おうと伝えるためだ。しかし彼は電話に出なかった。
 「何か用事があるのか。」僕はそう思った。
 しかし夕方になっても、彼は電話に出なかった。5、6回はかけたと思う。彼はついに夜になっても、電話に出なかった。「おかしいな。」「何かあったのかな。」僕はそう思った。僕は何が起きているか知る由もなかったのだ。
 深夜になった。1時近く、ようやく彼は電話に出た。僕はやっと戦友の声を聞けて、嬉しかった。しかし彼の声はいつもとどことなく違う。どこかぎこちない。
 「神戸に帰ってきたよ!これからのことを話すために、一回どこかで会わないか。落ちちゃったけど、僕もいろいろ考えたんだ。いつ暇なる?明日はどうだい?」僕はこう切り出した。
 しかし彼は「うっ、うん・・・。そうだねぇ・・・。」とおかしい。
 「どうしたんだ?何かあったか?」と僕が聞いても、彼は「いっ、いやぁ・・・。」と繰り返すばかり。僕は仕方なく、会う約束の話を進めていくと、彼はたまらなくなったのか、ついに真実を告白した。
 この時の衝撃は今でも覚えている。
 「すっ、すいません・・・・。実は僕、受かったんだ」
 「はっ?」僕は彼が何を言ったんだか理解出来なかった。しかし次の瞬間全てが分かった。
 「商や教育、法までダメだったから、絶対に落ちていると思って、電話で最後の政経学部の合否確認出来なかったんだけど、昨日の斎藤さんと話した後、ダメもとで電話したんだ。そしたら、うっ受かってた・・・。」
 僕は何も言葉が出なかった。そしてこの後、彼は最も衝撃的なセリフを口にする。
 
「だから申し訳ないんだけど、斎藤さんと一緒に夜間に戻れないわ・・・。ゴメン・・・」
 
彼は僕に最大限の気を遣っていた。だからずっと電話に出なかったのだ。
 一生懸命頑張った仲間を置いて、自分だけが受かってしまった。
 僕は動転していた。何を彼に言っていいか分からなかったし、何も自分の中で整理できていない。ただ「ゴメン・・・。」という彼の言葉が、僕に突き刺さった。
 僕はもう彼とは電話が出来なかった。「おめでとう」そう告げたあと、僕はすぐに電話を切って、ベッドの中に飛び込んだ。

 親友の合格だ。それも単なる親友ではない。この一年間何をするのも一緒だった、家族以上とも言える関係だった。その彼と僕との間に、今とてつもない差が開いたのだ。昨日までは確かに一緒だった。イヤ、一年間ずっと一緒だったのだ。しかし今は違う。僕は惨めに「夜間に残るもの」なのに、彼は「夜間を抜け出す、光り輝いた勝者」なのだ。
 もう誰もいなくなったのだ。カズヤがいないのだ。
 「落ちても悔いはない」こんなこと、もう言えなかった。事情が一変したのだ。
 この時改めて、僕は「何で僕が落ちたのか・・・。」と激しく思った。そして親友カズヤに対して、狂おしいほどの嫉妬を感じた。
 僕は眠れなかった。その時、僕は泣いていた。初めてだった。
 不合格の時でも涙は出なかった。だけど今はあふれる位の涙が出てきた。一晩中、僕は泣きながら自分の惨めさを痛感したのだ。
 親友の合格だ。何で喜べない、そう思うかもしれない。そう、僕は最低だったのかもしれない。しかしどう言われても仕方ないのだ。僕は彼に狂う程嫉妬し、そして何よりこんな惨めな自分に絶望していた。こんな自分を見たのは、初めてだった。ただどうにもできない。これが僕の真実の姿なのだ。

 その時から、僕の前でカズヤは、「絶対的な勝者」として映るようになっていた。もう今までのような友達ではいられなかった。
 久しぶりに会ったシンジさんと一緒に、僕はカズヤの引っ越しを手伝うことになった日のことだ。仲間だということで、引っ越しを手伝うのは当然だったが、この時はつらかった。
 彼のアパ-トに行くと、そこには「もういらない、必要ない」と言わんばかりに、使い終わった参考書や過去問題集、予備校のテキストが「ゴミ」としてヒモで縛ってある。そしてその横には早稲田政治経済学部の入学書類が置いてある。
 普通の人だったらこんな風景、別に何とも思わないだろう。しかし僕には辛かった。胸がつかまれる様なそんな苦しい気持ちになった。
 受験を終え、勝利者となった彼の立場と、受験に失敗し、敗者である僕の立場を痛感したのだ。
 彼は僕に気を遣っていた。そんな参考書のたばを見ては、「僕はバカだったからこんなに参考書を使ったんですね。」とか言ったり、当然話題に出るはずの、これからの東京での生活という事に関しても、「禁句」として一切話さなかった。それだけ気を遣ってくれたのだ。いつもは何でも話せたのに、今は何も話せない。一緒に笑うことだってできない。 僕ははっきりと感じた。カズヤと僕は、もう住む世界が違うのだ。
 ずっと一緒だった。本当の親友だった。しかし今では、彼とはもう住む世界が違うのだ。現実だ。これが現実だった。
 彼が気を遣えば遣うほど、僕はこの現実を痛感した。
 神戸大学の教務係で、僕は夜間への「復学届け」を出した。そして彼は「退学届け」を出した。もういたたまれない気持ちになった。
 そして僕の目の前から彼が消えた。東京に引っ越したのだ。
 普通の受験生だったら、友達が受かっても、目の前から消える程環境は変化しない。しかし僕達は違った。彼はもう別の世界に行ってしい、会うこともできないのだ。
 本当に「差」がついた。
 
 僕は一人になったとき、何日たってもカズヤへの嫉妬に狂い、そしてこの現実について考えていた。「早稲田の政経。夜間脱出。」本当に心から羨ましく、そして妬んだ。
 確かに受験勉強には悔いはない。あれ以上は出来なかった。「ここまでやってもまだ受からない。僕には才能がない。」としっかりあきらめた。
 しかしカズヤが受かった。ここで話は一転したのだ。
 僕はここで正直に心に問いかけた。建て前ではない本音を問いかけてみた。
 「才能がない。」そう言えばもう勉強しないで、「夜間」に残っていられる。楽になれる。
 しかしそんなことよりも、一体僕は何がしたいんだ、どうなればいいんだ、と問いかけた。
 答えは本当に簡単で、しかも当然のものであった。
 「夜間を抜け出したい。」まさに原点だ。原点に帰ってきたのだ。
 そしてその答えを「じゃあ何で夜間を抜け出したいのか」と問いつめてみた。何ゆえ「夜間」にこだわるのか。そして僕は正直になった。
 
 「いい大学に入りたい。いいブランドを身につけたい。自分で何にも言わないでも、人から認められる様なブランドを手に入れたい。」
 
 これが全ての本音だった。やりたい勉強のため、将来の方向のため、こんなことはどうでもよかった。ただ「いい大学に行きたい。ブランドが欲しい。」これだけだった。
 本当にくだらない結論だった。こんな事は受験界ではタブ-とされていることだ。「大学とは勉強するところだ。大学名なんかじゃない。」こんな話は山ほど聞いた。
しかしそんな事、僕には全く関係なかった。そんなレベルの高い話は、僕には考えられなかったのだ。
 ともかく「大学」も僕の中では、「勉強するところ」なんて以前に、一つのブランドに過ぎなかった。
 だってそうだろう。事実、「どこどこの大学です。」って聞いた瞬間、その人の評価はある程度決まる。「あぁすげぇ、頭いい。」自分で何も言わないでも、認めてくれる。
 みんな「その人がどういう人間か」、まで突っ込んだりしない。何故ならそこまでみんな他人に関心ないからだ。自分で精一杯なのだ。
 だけど他人と付き合わなきゃいけないから、そうなると自分以外の他人をどういう人か評価する必要がある。面倒くさいから、その人の持つ「ブランド」だけ見て、「この人はこんなもんか」と、簡単にすませる。
学生なんて別にまだ社会に出ていないんだから、社会的地位は「金」でなんか決まらない。唯一「差」がつくのは「大学名」くらいだ。だから「大学名」は、自分を良く見せるブランドなのだ。誰だって自分を良く見せたい。「どこどこの大学に通っている」こんなことでもその人の評価は決まる。
 事実、「学歴社会ではない。」といっても、やはり低いレベルの大学出身では、一流会社の面接さえ受けさせてくれない。まず学歴がないと、スタ-トにさえ立てない。こんな事から分かる様に、「大学名」はブランドの一種だ。
 「くだらない」「大学名なんかで決まらない」もしそう考えて、「学歴」を否定しても、現実の社会に出れば、「大学名」から、「どれだけの地位にいるか、年収はどれくらいなのか」といった、言わばそんなブランドに変わるだけだ。
 それでしか評価されないという事態は、何も変わらない。単にマンションに住もうと思っても、「入居審査」である程度の地位にいないと、住むことさえ許されない。「俺は地位はなくても、これだけ素晴らしい人間だ!」って叫んでも、誰も聞いてはくれない。それが現実だ。本当に甘くない。

 どうすればいいか?
 
 答えは簡単だ。いい大学に受かればいいのだ。
 そうつまり「受かるまで受験をヤリ続ければいい」のだ。こんだけ受験勉強しても落ちた。だけど誰も「落ちたけど、斎藤君はすごいよね」なんて認められない。ならばやはりやるしかないのだ。
 この受験とは「不合格」では終わらない。いや、終わることは出来ないのだ。「合格」しなければ終わらないのだ。受かればこんな苦しいコンプレックスから抜け出せる、受かれば楽になれるのだ。全ては受かってからだ。 
 受からなければ、この今までの一年間は単なるムダに終わる。何故なら評価されないからだ。ブランドにこだわる今、自分の評価はどうだってよかった。やはり他人の評価だ。 僕は思った。自分の評価なんて、まず他人の評価があってから出来るもんだ、と。
 そして僕は受からないといけない、もう一つの理由があった。それはカズヤだ。彼は僕の人生の中で、本当にかけがえのない親友だ。今まで出会ったことのない同志だ。
 このままでは住む世界が違えば、彼とは気まずくて、話すことさえ出来ない。この数日の様子を見れば分かる。結果として、彼は前に進み、僕はこの場に残った。このままでは差が開く。ならば僕も彼と同じ世界に、追いつけばいいのだ。そうすれば、彼と今まで通り友達でいられる。
 これが本当の友達ではないだろうか。
 人間必ず差が出る。いつまでも、仲良しこよしではいられない。そんなとき、「もう住む世界が違う、といって縁を切るのか?いや、自分も頑張って追いついてやろうと行動を起こさなければならないのではないか。
 「いつまでも友達でいる」には、大変な努力が必要なんだ、とこの時初めて思った。僕が受かれば、彼とも笑って話せる。僕が1年目落ちたことも、笑い飛ばせる。
 「彼とは友達でいたい。」そう思った僕は、やはり受かるしかなかった。
 この時思った。「経過ではなく、結果なのだ」と。
 もう二度と向かいたくないという机に、僕はまた座っていた。大っ嫌いで、苦痛のなにものでもない勉強を、僕は再び始めた。
 こんなことはイヤだ。しかし、また皮肉なことだが、楽になるには、自分を救うには、受験勉強をヤラなければならないのだ。今すぐに机に向かわなければならない。


9、100やれば10返ってくる、それが僕の人生だ!
偏差値80に向けて運命の2浪目がついに始まる!


 今年分かったことは、僕にとって「夜間を抜け出すことは難しい」という事だ。明らかに僕は「不運」だった。しかし今度は「不運」が働いても、何があったとしても合格しなければならない。
 「運」も関係ない位の力をつけ、余裕で受かるところまで力がないとダメなのだ。絶対に合格できない。普通、早稲田慶応なら偏差値70が十分合格ラインだ。しかし僕の人生は「100やって10返ってくる」もんだ。だから僕の合格十分ラインは、偏差値80だと決めた。これだけあれば受かるだろう、と考えた。
 
 冷静に考えてみると、僕の人生はいつもこんな感じだった。「100やって100返ってくる」なんてことは一度もなかった。そういえば、高校受験の時も同じようなことがあった。
 その時も僕は、同じ中学の親友と一緒に受験した。今回と同じように、彼の成績は僕より思わしくなく、僕が「応援している」という感じの受験だった。僕は塾が「必ず受かる」という太鼓判を押すぐらいの成績だったが、第一希望の高校には落ちた。そしてその親友は奇跡で受かった。その時から、その親友とは会わなくなった。それは通う高校が別々で、住む世界が変わってしまったからだ。
 結局、僕は滑り止めの高校に行くことになった。
 僕の人生は本当に「運」がない。これだけ少し生きただけで、そう判断するのはおかしいかもしれないが、ここまでの人生を見る限り、確実に「運の無い」方だ。
 
 「100やって10返ってくる」
 これが僕の人生なのだ。だから努力しなくちゃいけない。
 もし早稲田慶応に受かるには、「早稲田慶応など落ちるなんて有り得ない」こんなレベルまで上げなくてはいけないのだ。どんな過去問題やっても、ほぼ満点近く取れるくらいの力が必要だ。
 「運」など作用しない領域に進まねばならない。それは偏差値80だ。
 志望校も、「早稲田慶応」ではダメだ。それでは落ちてしまう。「滑り止め」くらいに設定しなければならないのだ。
 志望校は「東大」にした。「東大」での合格ラインまで来れば、僕は早稲田慶応には必ず受かる。
 東大の前期試験では、英国数の他に、社会2教科まで必要だ。そうなると偏差値80は無理だ。だから英語国語2教科で受けられる後期試験一発を狙うことにした。
 「東大後期」この名前を聞くと、受験生誰もが震え上がる。前期と違い、英語と国語だけで受験できるかわりに、その難度は、受験レベルをはるかに超えている。英語日本語論文試験で、試験時間は合わせて5時間もある。
 まずセンタ-試験の9割近くを達成していると、一次試験クリア出来る。15倍から一気に5倍へ。そしてようやく、その論文試験を戦うことになる。
 この時の僕の実力では、明らかにムリだった。英語なんか、その課題文さえ理解できないだろう。日本語訳にしても、意味が分からないほどの英語の文章だ。それを踏まえて論述なんて絶対ムリだ。
 しかし僕は頑張らなければならなかった。そのレベルまで、日本最高峰までのぼりつめなければならなかった。
 「そうでないと受からない」僕はそう言い聞かせた。
 
 ついに僕の2浪目が始まった。
 神戸大学夜間、これが僕を動かす原動力だ。「いい大学に行きたい」と心から思わせてくれた。
 そして2浪目は親には言えなかった。誰にも言えなかった。だから一応、大学に通わなければならない。単位をとることは親との約束だった。
 
 夜間に僕は一年ぶりに帰ってきた。そしてこれがさらに、僕を異常な世界へといざなうことになる。とんでもないヤツラがそこにいて、僕は出会うことになる。
 そのとんでもないヤツの中心が、前半で述べたシンジさんだ。ここまでほとんど触れてこなかった。1年目は、カズヤとの方がアツかったが、ここからのドラマは、このシンジという男と、行動を共にすることになる。この男は一言で、「フ-リガン」であった。僕と同じ「コンプレックスフ-リガン」だ。
 カズヤという男も僕を動かした。しかしこのシンジという男は、それ以上にこのドラマを盛り上げてくれた。
 そしてドンドン受験は加速することになる。そして「大学生」の本当の姿を目にすることになる。
 ドラマはここから始まる。もしかすると、ここまでは「イントロダクション」だったといえる程、この2浪目はドラマだった。
 では少しずつ、語るとしよう。

はがねさんへの公開メール

Bonjour はがねさん

 

こんばんわ。ネジ屋です。初めてカニラジにメール差し上げます。

 

この度このようなメールをしたためたのは、

お互いパーソナリティがメールを出し、その内容について話し合うという企画のためであり、

カニラジは何てメールを出しやすいネットラジオなんだ!と、

リスナーの方に改めて認識して頂くことを目的としています。

 

メールというのは、一般的にはe-mailのことを指しますが、

我々ラジオへのメールは、e-mailだけでなく、TwitterといったSNS、ちょっとレトロな瓦版、

はがねさんへの直電、果てには はがねさんへの呪いの手紙も含まれ、どんな形でも良いのです。

というわけで、一発目はブログで公開に致しました。

 

考えてみれば我々はリスナーにメールを書いて頂けるような努力をずっと続けて参りました。

あるときは○○○○○というキ○ガイじみた人間からメールが来ましたが、断るわけにもイカず、

ラストに持ってくることで、聞きたくない人は聞かないで済むような配慮を致しました。

 

また、”うどんという1単語のみのメールでも話す!”と豪語し、

実際に”そば”という1単語メールが来たため、そばについて1コーナー設けました。

 

我々はこのようなスキルを持つ程、長い間ラジオを行っていたようです。

はがねさんは一万時間の法則をご存知でしょうか?知らない?ググって下さい。

 

2014年からまたラジオを再開し、はがねさんはさらなるパワーアップを果たしたと存じます。

ラジオのネタに関しては、言葉の単位における最小単位である"単語”、

このようなネタ振りのレベルはすでにクリアしたはずですし、今更”スイーツ”何てお題も、

はがねさんに対しては、無礼・失礼・失敬・不敬・空気読め!となります。

 

というわけで予定以上に前置きが長くなりましたが、

以下がはがねさんに差し上げるメールです。

 

”は”

 

というわけで今回は"単語"よりも更に分解した単位である”文字”について、

15分程度話していただければ幸いです。

我々はこのようなたった一文字のメールであっても、ラジオにするんだ!

という強い意志を示した放送をお願い致します。

 

あの伝説の風俗店デッドボールよりもデッドボールかも知れませんが、

何卒、面白い放送の程期待しております。宜しく願いします。

 

ネジ屋

 

Raspberry Pi 3で遊ぶ前に準備してみた

こんば。ねじ屋です。

 

さて、今日の皐月賞皆さん当たりましたか?

当てられるわけねーよ、という感じです。

展開を読むってのは重要かも知れませんが、

ハマるかハマらないかってのもあるので、なかなか難しいですね。

www.youtube.com

 

さてさて、まだRaspbery piで遊んでます。

とはいえ、完全に初心者。色々と苦戦しております。

その様子を日記形式で買いてみます。

 

【4月11日】

前のブログにて、浮かれて買ったーと書いたものの、

全く知識がなかったので、必要なものが揃っていませんでした。

一度Arduinoで遊んでいた時期があって、そのノリで考えていたため、

とりあえず、通電さえすれば雰囲気が掴めるだろうと考えていました。

 

…Raspberry pi はLinuxパソコンとして使えるんですね! Arduinoと全然違うじゃん!

 

ちなみに、皆さんはゲームソフトを買った時、説明書を読みますか?

僕は開けたことすら無いです。

 

- 最初に買ったもの

  ・Raspberry pi 3 Model B 本体

  ・本体用電源

  ・本体ケース

 

- 追加購入したもの

  ・SDカード(これがHDの容量となるらしい。最小で4GB必要)

  ・HDMIケーブル(モニタと接続するため)

  ・抵抗とかLEDとかのセット(配送料を無料にするため。いつから無料じゃなくなったんだ!)

 

仕方なくぽちっとしたのみでした。

 

【4月13日】

やっと、SDカードが届きました!

これでパソコンに繋げられる、と考えていたのですが、

早速SDカードをどこに繋げていいのかわかりませんでした。

 

これが上面。HDMIとかUSBはケースは表示があります。

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側面。まだSDカードらしきものはありません。

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これが背面。普通に考えればあるわけがないのですが。

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30分位格闘した末、ありました!ここです。

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そう、この小さい部分。ちなみにSDカードなど何一つ書いていません。

pi 3にはSDカードスロットが無いのではないかと、ネットで調べたのですが、

SDカードスロットの有無・位置などの情報は見つかりませんでした。

 

当たり前すぎなんですかね?

他の人が難なく見つけたのが信じられないんですが。。。

 

さて、こんな調子なのですが、次の日はもっとひどい目にあいました。

 

とりあえず今日はここまで。

 

Raspberry Pi 3

こんば、ねじ屋です。

今日の桜花賞は、接戦でしたね。

僕の目には、シンハライトが勝ったかな?と見えたのですが。。。

まぁ、馬券的にはとんとんでした。

 

さて、今日はRaspberry Pi 3を買っちゃいました。

どーん。(右は、ケース)。全部で9000円ほどしました。

 

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中をあけると、どーん。

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さて、イマイチどう使っていいのかよくわかりませんが、

これから少しづつ勉強していきたいと思います。

 

それでは!

プログラムをゲームで学ぶ

こんば。ねじ屋です。

 

ところで明日は報知杯フィリーズレビューですね。

一番人気はアットザシーサイド、次いでナタリーバローズとなっていますが、

それでも圧倒的な主役はいないことから、4倍台となっています。

いいですねー。そういうレースの方が賭けて面白いってもんです。

 

やっぱり阪神JFのビデオ見てても、

アットザシーサイドの末脚は結構なもんですよね。

ウィンミレーユとかも良さそうだなぁ。

それとダイアナヘイロー。その三つの組み合わせで買います。

www.youtube.com

 

さて、数学(あるいは算数)をするには、計算機が必要です。

紙と鉛筆じゃ、四則計算ならまだしも、ちょっと複雑になると大変ですよね。

今の時代、ほとんどの人はパソコンを所有しているので、

計算”機”ではなく、アプリケーションソフトウェアが必要となってきます。

 

ほとんどの人は、Excelを思い浮かべると思います。

ただ計算が複雑となると、Excelは使いにくいです。

複雑な計算は基本的にはプログラムを書いて(=コーディング)行なわれますが、

コーディングは呪文のような文字が並びますから、とっつきにくいものです。

 

わかりやすく、楽しく学べるものがないかなーと思っていたところ、

code.orgというサイトがありました。(ちゃんと日本語表記です。)

教材は、アナと雪の女王やマイクラなどの流行りのもので

基本的には子供も楽しく学べるような内容となっています。

 

code.org

 

ちょっとやってみたところ、こんな感じです。

ワークスペースには”~したとき”というイベントハンドラがあり、

そのイベントハンドラに動作であるブロックを繋げていきます。

実行を押すとゲームが開始し、意図通りのシーケンスを組むと先へ進めます。

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コーディングがないので、コーディングの能力は向上しませんが、

プログラムってこうなってるんだー、と学ぶには良いと思います。

 

如何でしたか?

アナと雪の女王って、どうしても穴と雪の女王とか

Ana雪の女王って書いちゃいたくなるものですよね。

Just a little/Ark

こんば、ネジ屋です。

 

昨日のブログで書いてしまったArkというバンド。

書いた後から、ずっと聴きこんでしまったので貼っときます。

 

www.youtube.com

 

滅茶苦茶かっこ良くないですか?

何メタルっていうんだろう、Spanishメタル?

イントロのギターから、フレットレスのベースの音、

やたら細かく手数の多いドラム、全て凄いです。

 

 

www.youtube.com

 

リズムギターの歯切れの良さがいいっすねー。

誤魔化せない音なので、弾くのは難しいと思います。

 

如何でしたか?

歌詞は、見なきゃよかった…と正直思いました。

Not ready to make nice / The Dixie Chicks

こんば、ネジ屋です。

早速、競馬も数学もプログラムも関係ない話題を一つ。

 

確か海外版のど自慢みたいな番組でシロウトのチャンネーが歌ってて、

この曲を知ったんだと思います。それが表題の歌。

 

The Dixie Chicksは1989年テキサス州で結成された3人組バンド(結成当時は4人)で

2003年にはボーカルのナタリー・メインズが、当時アメリカ大統領のブッシュに対して、

”彼がテキサス出身であることを、恥ずかしく思う”と発言し、逆に批判されました。

そんな批判に対するアンサーソングだったのが、この"Not ready to make nice"

訳すなら、”いい人を装う気なんかないよ”という題でしょうか。

www.youtube.com

 

とにかくこの曲の聞き所は、2番Aメロです。

シンプルだけでも、感情が畳み込まれた歌詞とリズムに対して、

バックのストリングスが絶妙に絡んできて、静かな怒りを表現しています。

 

その部分を軽く訳してみましょう。

I know you said
Can't you just get over it
It turned my whole world around
And I kind of like it

わかってるわよ

”そんなのただ乗り越えたらいいじゃないの”って

そのせいで、世界は全く持って変わってしまった

まぁ、面白い経験かもしれないけどね


I made my bed and I sleep like a baby
With no regrets and I don't mind sayin'
It's a sad sad story when a mother will teach her
Daughter that she ought to hate a perfect strange

ベッドは整えたし、赤ちゃんのように寝るの

だって何の後悔もしてないし、はっきり言うことに遠慮なんてないし

悲しい話じゃないの、母親が子供に対して

”知らない人は皆敵だと思いなさいよ”と教えるなんて


And how in the world can the words that I said
Send somebody so over the edge
That they'd write me a letter
Sayin' that I better shut up and sing
Or my life will be over

私の言った言葉が、誰かを追い詰めたらしく、

手紙を送ってきたの。おかしな話よね

 その手紙には、”黙って歌えよ、さもなければ死ぬよ”

って書いてあったわ

ここで好きなのは、盛り上がる直前の直前”And I kind of like it”という表現です。

それからは曲も盛り上がってくるし、めっちゃ怒っているくせに

あえて皮肉ぽい"kind of (=ちょっと)"、"like it(=イイね!≠良かった!好き!)"という言葉から始まります。

盛り上がる直前に鼻で”…ッフ”って笑ってる感じです。

 

ネジ屋はこの曲が大好きなんですが、イマイチThe Dixie Chicksのファンにはなりきれません。

というのも、このナタリー・メインズは、オリジナルメンバーじゃないんです。

もともとローラ・リンチというボーカルがいたのですが、クビになり、

当時プロデューサーだったロイド・メインズの娘が入りました。

 

Wikipediaによると、この決断の黒幕は残り2人の姉妹らしく、

ローラよりも15歳も若いナタリーを入れ、バンドのイメージを変えたかったそうです。

ローラこの2人の決断を支持しているとの記述もありましたが、

一方でローラは”朝に2人が急にやってきて、「新しい方向性が必要なの」と言われたの”と語り

半年間はずっと泣いていたらしいです。

 

見方によれば、若い女の子がバンドに入って、売れて、業界人ぽくなり、

ちょっと政治的な発言をかましたら、炎上し、それを曲にしたら売れるかもと、

プロデューサーにそそのかされて、ヒットになった曲、とも疑ってしまいます。

ネジ屋も結局、The Dixie Chicksの曲は、これしか知らないんですよね。

 

そのことについて、ブッシュはこう述べています(意訳)。

”彼女らは言いたいことを言っただけだよ。逆にファンの人が、その言葉のせいでレコードを買いたくないと言ったとしても、それは自由だと思うんだ。この通り、自由ってのは二つの面があってさ。個人的には彼女らが何を発言しても気にしてはないよ。だって僕はアメリカにとって一番良いと思うことをしたんだからさ。歌手とかハリウッドスターが何を言おうと、それでいいんだよ。だって、それがアメリカの良いところなんだからさ。それは、現在のイラクと全く逆だろう?”

まさに”U・S・A!U・S・A!”と言いたくなるような回答。

政治的な話一切抜きにしたら、ブッシュのほうが一枚上手な気がします。

 

ともあれ、全てパッケージにして凄く良く出来た曲(+話)で、大好きな曲の一つです。

 

如何でしたか?

僕は、インギー様のバンドからインギー以外全員辞めて結成したバンド”Ark”

そのなかでも、”Burn the Sun”というアルバムが大好きです。