偏差値70からの大学受験 受験本番編

11、最後の戦い、受験本番!



 試験前日、僕は興奮してなかなか寝つけず、ようやく眠りについたのは、明け方に近かった。そんな浅い眠りの中で、僕はこんな夢を見た。
 時は大阪外国語大学合格者発表日、合格したのだ。
 「去年は絶対に自分の番号はなかった!しかし今は目の前にある!夜間から出られる!」 ここで目が覚めた。
 しかし目覚めてもまだ、その興奮がおさまらなかった。心臓が高鳴っている。去年のあの不合格は、僕の心に強く面影を残していた。「抜け出せる」という事が、「自分には有り得ない」というイメ-ジでしかない。不吉な予感が、大きく膨らんでいく。
 「夜間脱出」、これが夢にも近い憧れとして遠のいていった。

 試験会場である「大阪外国語大学」は山の中にある、素晴らしい大学だった。2年前からは考えられない場所に、僕は立った。教室に入ると、女の子ばかりだったが、全部で100人以上はいただろうか。
 しかし僕は全員誰もライバルだとは思わなかった。
 敵は自分だ。この自分なのだ。もう、どうなるか分からない。この偏差値80の力を、全て時の流れに任せた。 
 この手で全てが変わる、不可能なことなど何もない。そう叫び続けたドラマの最後だった。

 試験は会心の出来に終わる。
 1時間目の英語では長文の記述と英作文。どちらも今の僕には問題なかった。悩むことは何もない。まずは完璧だろう。
 2時間目の論文では、試験時間60分で「世界のグロ-バル化について、自分の意見を1000字で論述せよ」というものだった。これも「東大対策」で論文訓練は完璧にしていた。結果、「これ以上はない」という論文を書き付けたのだ。
 パ-フェクト、しかしそれでも僕は安心などしていなかった。
 「会心の出来」と言うが、去年の受験もそうだった。あの時も悔いはない勝負だったはずだろう。どうすればいいんだ、と悩みに悩んだこの戦いだ。まだ「絶対」など有り得ない。


12、12月。悲劇は終わるのか!?涙に浸る屈辱の12月10日!



 外語大の試験が終わった11月末、僕達は最悪のスタ-トを迎える事になる。同志であるシンジさんが立て続けに落ちたのだ。
 大阪大学京都大学不合格。成績的に「必ず受かる」という、神戸大学法学部まで連続不合格。僕はその結果が信じられなかった。彼は絶対合格のラインにいた人間だ。この戦いは、やはり呪われているのだろうか、僕達はそう考えるしかなかった。
しかしここまでだった。この「不運」にも彼はついに勝ってみせる。そう、ここから勝利の日が始まるのだ。
 その2、3日後の事だった。

 「東北大学に受かりました!」電話で叫ぶシンジさん。これが、彼のドラマの終わりだった。
 やはり勉強し続ける事なのだろう。力があれば、必ず受かるのだ。
 僕は喜んだ。本当に嬉しかった。今年は合格にふさわしい友が、合格した。妬みなどあるはずもない。だからこそ次は僕の番なのだ。その時から、僕の合格発表まで1週間。シンジ、カズヤが合格した今、ついに僕は最後の一人となった。

 合格発表前日、12月10日のことだった。僕はこの日を忘れない。
 いつもの様に大学の授業に形だけ出て、一番後ろに座り、受験勉強をする。
 僕を避けるように、前のほうでIQやイガ、ヒルマが座っていた。そして見渡せば、大教室が100人近くの夜間生で埋まっている。

 僕は何でこんなところにいるんだろう。

 そんな夜間生の姿を見ながら、心の中でつぶやいた。
 偏差値80を取った。夜間全員の誰よりも、偏差値は高い。僕は一番努力、苦労している人間だ。しかし最後の最後まで残ったのは、紛れもない僕自身だった。僕は世間から見れば、この夜間生なのだ。どんなに頑張ろうが関係ない。「クサイ」と評されても文句は言えない。
 僕は帰り道の途中で、立ち止まった。
 いつもの様に、美しい神戸の夜景が広がっている。2年間眺め続けた、変わりない景色だ。そう、いつまでも変わらないのだ。
 僕は一人で泣いていた。
 限界だったのだ。実力を上げれば上げるだけ、強がりは増した。しかしその裏で、空しさも募っていったのだ。何でここまでやらなきゃならないのか。
 僕は初めて弱音を吐いた。そうしたら、その切なさ耐えられなくなっていた。涙を流したのは、あのカズヤの合格以来のことだった。
 
 家に帰ると、英検準1級の面接試験合否通知が届いていた。面接は普通、9割は合格する。落ちるはずのないその結果は、以下の通りだった。
 合格点23点中、僕は22点。
 あと1点だった。不合格。
 僕を支えるものは、もう何も無かった。


13、勝利



 かすむ意識の中、僕は合格掲示板を見た。
 最難関の「地域文化学科英語」の合格者は、40人近く受けてわずか3名。見た瞬間分かった。
 「あるわ!」
 僕はその場に崩れ落ちた。
 掲示板に自分の番号はないもんだ、こう慣れきっていた。落ち続けた僕は、もう何も信じられなくなっていた。
 しかし今は違う!僕の番号が、目の前にあるのだ!見事完全合格だった。
 思えば当然だった。偏差値80の受験生だ。実際、落ちるはずがない。しかしそんな余裕、僕には無かった。とにかく嬉しかった。異常なまでの派手なその喜び方に、外大生の奇異の視線を思わず集める。僕は狂喜の中にいた。人生が大きく動いていく実感がわいた。
 もう僕は夜間生ではないのだ。偏差値70の大阪外語生なのだ。楽しいキャンパスライフはここから始まる、そう僕は自分に言い聞かせた。目の前がバラ色とはこの事だろうか。 「夜間から抜け出した」
 僕はついにやり遂げたのだ。
 喜びに打ち震える手で、僕は友人達に電話しまくっていた。結果を出した今、ようやく胸を張れる。
 「まだやってたんだ、オマエもよくやるな。まあお疲れさま」
 みんなは呆れながらも、口々にこうほめてくれた。屈辱に耐え切れず、友達と会う事はもちろん、その声さえ聞きたくなかった9カ月前。思えば本当に長い戦いだった。
 
 シンジさんは食堂で、僕の凱旋を迎えてくれた。
 「やりましたね!やりましたね!」
 満面の笑みを浮かべながら、僕達は大声で叫んでいた。
 夜間の連中は、僕の結果を今か今かと待ち望んでいる。「落ちてくれ、落ちろ!」こう切願しているに違いない。
 「行ってやるか」
 僕達が勝者になる瞬間だった。

 クラスに入ると、誰にも聞こえる大声で、「受かった、受かった!夜間脱出成功!」と叫び散らした。僕はすぐさま、IQ、イガ、ヒルマの顔を見る。
 いつもの嫌らしい笑顔はなかった。悔しさと妬みで、顔が歪んでいるのだ。僕ははっと気付き、クラス全員を見回した。そう誰もがこちらを見つめ、顔を引きつらせている。
 僕はためらわなかった。容赦など、どこにもない。
 「来年の4月から、僕は大阪外語大生。英語学科、偏差値70です!」、そう言い放って教室を出た。
 
 次の日、模試事件を上回る800枚もの大量のビラが、神戸大学中に再び貼り出された。 真っ黒な下地に、白色の派手な文字。その風体は、模擬試験ビラと同じだ。しかしその内容は、模試を超える衝撃度だった。
 「たかが模擬試験、受かってから言えよ、偏差値80なんてすごくない」
 数々のご批判ありがとう。だからその通り本当の大学に、受かってやったぞ!僕の魂の叫びが、神戸大学中にこだまする。
 「大阪外語大学、地域文化英語学科(偏差値70)合格!夜間生が勝利!」 こんな見出しだった。またも大学中がパニックになった事は、言うまでもないだろう。
 夜間生にもう敵はいなくなった。「やられたら、100倍にして返す。それが斎藤だ」、この意味に彼らがようやく気付いた。しかし時すでに遅し。彼らは卑屈に黙るしかないのだ。ただ僕も優しい。「合格したよ」それ以上の攻撃はしなかった。必要以上の自慢に酔ったりはしない。しかし彼らにとって、その一言でも十分なブロ-となって、叩き込まれていたのだ。
 僕達の勝利の日だった。
 サ-クルでも僕は誉めたたえられた。つい数ヶ月前までは僕をバカにしていた女の子も、「やっぱり頭がいいんだね」と、笑みのない引きつった顔で、しきりにかつぎあげてくれる。
 「連中と並んだ」、僕は確かな手応えを感じていた。
 「夜間を抜け出した。合格した」この心からの願いが満いたされた今、僕は全てが報われた。人生最高の充実の中にいた。
 「ウソじゃないよな?夢じゃないよな?」
 まさに非現実である。


14、そして奇跡の大逆転!!



 20世紀の終わりが迫る、12月末の事だった。
 大阪外大の勢いに乗って、一般入試も全部合格してやる、こう心に決めていた。外大の合格という「確実な保険」は、そんな受験を続ける僕を、楽にしてくれていた。外大合格があるか、ないかでは話が全然違う。肩の力が抜け、余裕が生まれた。
 そんな中、外語大学から一通の手紙が来る。
 これが運命を狂わせる、全ての始まりだった。
 「入学おめでとうございます」こんな祝電の様な内容だったが、僕はある箇所にはっと目を止めた。それは入学条件である、「単位数」であった。
 1年生編入では入学条件で32単位必要である。普通の昼間の大学生にとっては、難なくクリア出来る楽な単位数だ。
 ところが「夜間」では話が違う。
 夜しか授業のない夜間では、一年間に最高で32単位ギリギリしか取れないのである。そうなると、僕は最高単位数を取らなければならない。
 普通の昼間の大学なら50単位ほど登録して、その中から32単位とればよい。余裕である。ところが夜間は32単位しか登録できない。全部取らないと32単位という条件は満たせない。
「夜間」、この言葉がまた僕をしめつける。
 フルで単位を稼ぐためには、しっかりと腰を据えて勉強をしないと難しいもの。ただ受験勉強を続ける僕にとって、果たしてそれは良い事なのだろうか、こんな疑問が生まれた。
 編入受験当初、僕は「単位数」について軽くしか考えていなかった。そんな事より、まず試験に合格することだ、と自分に言い聞かせていたからだ。編入受験生なら誰でもそうだろう。「単位」など心配にも及ばない些細な問題だ。
 ただ「夜間」では話が違ったのだ。
 単位を取るために、受験勉強をやりながら、大学の勉強もやればいいじゃないか、と思った事もあった。
 しかし正直になれば、それが決して良い事とは言えないだろう。これから僕はさらなる高みに向けて、どんどんペ-スを上げていかねばならない。その先には「早稲田慶応」、そして「東大」が待っている。大学の勉強している少しの暇があったら、もっともっと受験勉強をしなければならないのではないか。
 
 また続いてその手紙には、こう書いてあった。
 「入学金30万は、1月25日までにお納めください」
 2月の一般入試も受験するんです、お金はそれまで待ってくださいなんて、都合の良い事は通じない。このまま受験を続けるための保険にしては、30万は高すぎる金額であろう。
 今、入学金30万円払うなら、受験を断念して大学の勉強に集中し、大阪外大に確実に行かないと筋が通らない。また、もし外大よりさらに良い大学を狙うなら、外大を捨てて受験勉強に専念しなければならない。
 受験も外大どっちも両方など、「妥協」は出来ない。やるんだったら、どちらか一つという状況に追い込まれてきた。
 最高の幸せから一転、思いも寄らずに事態が一変した。
 「ここでやめるか」
 僕はふとそう思った。ここまでよく頑張った。偏差値80まで上げてきた。今の大阪外語大学でも十分素晴らしい大学だ。胸を張って自分を紹介できる。「大阪外語大学生です、偏差値70です」と文句ない。説得力を持って夢を語れる。
 ある意味「保険」が出来た事で、僕の意志は弱くなっていた。受験勉強も常に限界のラインにいる。いつでも投げ出したい思いで一杯だ。
 毎日悩み続けた、そんな時だった。
 僕の話を聞いていたシンジさんが、一言こう言った。

 「今ならいけるんじゃないでしょうか」

 今思えば、この一言が僕の運命を変えた。
 彼はこう続ける。「斎藤サンは偏差値80まで来ました。そして難なく大阪外語まで手に入れましたよ。だから今ならいけます。東大や早稲田慶応も確実にいけますよ。日本の頂点が、今目の前に見えているんですよ!」
 僕は全身に衝撃が走り、答えが決まった。
 今、自分が立っているその位置は、とんでもないところだったのだ。目の前には「早稲田慶応」だけではない、頂点である「東京大学」までもがある。「夜間」脱出を願い、ブランドに憧れ続けて、ここまで来た。がむしゃらに走っていたら、気付けばどこの大学でも合格出来る力が付いていたのだ。
 「今ならいける」この言葉が全てだった。僕は大阪外語大学という最後のトリデを捨てた。
僕は「妥協」だけはしたくなかった。変な言い訳をして、これからの一般入試の戦いを汚したくはなかった。そう去年は心に決めていたはずだ。「偏差値の高い大学に行って、ほめられたい」、そんな僕の思いは、何一つ迷いや虚飾も無い。だからこそ、そんな純粋さが僕を極限まで追い込んだのだ。
 「奇跡」だった。
 誰もが受験が終わったと思った。僕でさえも一応のケリをつけたつもりだった。しかし、何一つ終わってなどいなかったのである。
 大阪外語大合格は消えた。そして僕には何も無くなった。
「夜間」ゆえに僕はブランドに執心し、ここまでやって来た。だが最後はその「夜間」が、「単位数」という些細な条件をこじ開けて、重くのしかかってきた。始まりも終わりも、やはり「夜間」だったのだ。
 僕はこの奇跡に、悔しさと恐怖を感じながら打ち震えていた。
 自分で決めたことだ。文句は言えない。しかしそんなことを言っているのではない。なんでこんなにツイていないのか、という事だ。確実になったはずの「夜間脱出」。しかし奇跡が起きた。やはり叶わなかった。

 12月28日を最後に大学は、1月終わりから2月初めの試験週間まで冬季休業に入る。その最後の授業日、僕は大学に向かった。クラスの連中に会うためだ。
 僕は最初に会ったIQに、一言だけ伝えた。
 これが最後の宣戦布告だった。

 「大阪外語大学には行かない。もうここの夜間の授業にも出ない。一般入試で東大に行くためだ。」

 彼の顔は満面の笑みに変わった。僕はこの瞬間を忘れない。
 「信じられないね、合格出来たのにね」、彼は同情しながらも顔は笑顔だった。
 当然のことながら、一気にその情報はクラス中に広まった。
 誰もが息を吹き返した様に元気になり、勝敗の立場が逆転した。「まだやるのか、受からないよ」と繰り返される。
 別れ際に、彼らはこう言った。
 「来年僕らは編入するから。ここには京大を狙うヤツもいるんだよ」
 夜間にもオマエと同じくらい頭イイ奴もいるんだ、あまり馬鹿にするなよ。オマエは仲間じゃない、勝手にやれ。そういう彼らからの決別のメッセ-ジだった。
 確かに僕はそれだけのことを、やってしまった。
 模擬試験のビラをばらまいたり、合格証明書まで貼りだした。自分の思いを伝えるためだけなら、「真実」をこれでもかと叫んだ。これは夜間の連中にとって、やはり「不快」の何ものでもなかったのだろう。
 「偏差値低いからクサい、こう言われても文句言えないよ、社会は厳しい」こんな事分かっていても、彼らにとって目をつぶっていたい話なのだ。それなのにワザワザ僕が傷口に塩を塗る。余計なお世話だ。
 「自分で勝手にやれ」これが彼らの正直な声なのだろう。だから夜間全員が敵になった。こんな状況に追い込まれた。
 「もう、ここに戻ってくる訳には行かない」
 自分で落ちた時の事を考えた。
 「あいつ帰ってきたよ・・・」、偏差値80の自分が、夜間のクラス全員に蔑まれている。耐えられない。そして何より次の目標は何だ?2年生編入か?もうイヤだ。勉強なんかしたくない。
 大阪外語大の時も「これが最後だ」と感じた。でもあの時は、その後一般入試もあった。しかし今回は本当に「最後」だ。もうこれを逃したら、2度とチャンスはない。
 「落ちたらどうする?」
 そう自分で自分に問いかけた。すると自然と、心から答えが返ってきた。

 「死ぬか・・・」

 迷いなど、どこにもなかった。この受験が僕の人生最後の勝負になった。
 大げさに言うのではない。こんなに勉強し続けた。自分の全てをこの受験にかけた。その間にはいろいろな事があった。カズヤもいた。シンジもいた。80まで数字を上げた。そして自分だけが落ちる・・・。
 僕は当初、「絶対に落ちることのない受験」を目指していた。
 皮肉だ。ここにきて、僕はついに絶対に「落ちる」ことは無くなった。そう、落ちたら僕の人生はそこで終わるからだ。究極の結論だった。
よく「受験なんかで落ちて、死ぬなんてバカだ」と本で書かれている。しかしそうだろうか。本気で受験に打ち込んだ、そして人生をかけた。それが何でダメなのか。もちろん「自殺」なんてタブ-だ。しかし本気で何かをやり遂げる時、勉強でも何でもそれだけの強い意志が必要なのではないか。
 シンジさんは僕の行動を止めはしなかった。「そうですか・・・」彼は頷いただけだった。当然だろう。この僕の2年間を全て知っているからだ。
 彼は僕の決意を分かってくれた。そして「必ず受かります」そう繰り返した。

 その3日後の、12月30日。2年間家で共に暮らしたネコの調子が急変する。そのまま病院に担ぎ込んだが、「結石」という病気が悪化していた。受験生という余裕の無さ故に、僕は彼の病気の前兆を捉えられないでいたのだ。全て自分のせいだった。
 ペット以上の想いを寄せたネコが、亡くなった。彼は僕の顔を見つめながら、静かに息を引き取っていった。
 最後に残されたのはやはり僕一人だった。
 だが「孤独」という感情はもう忘れていた。「生きる」ためには「合格」しかない。もう戻る場所もない。進むしか道はないのだ。


15、2001年1月。最後の戦い!決戦の舞台が決まる!



 年が明けた。21世紀の幕開けであった。

 実際この頃になると、「英語」もほぼ完成の領域に入っていた。
 SFCの問題でも9割は確実に取れていた。英語検定準1級レベルまでの単語は、完璧に暗記していたので、まず分からない語句はほとんどない。英語でも日本語でも関係なく、難易度の高い文章が読めるようになっていた。
 編入界から受験界へと復帰し、12月31日に受けた「慶応大学SFCプレ試験」では、思うような出来でないにしても、100点中88点。全国で8位にランクされた。上位ランク者はほぼ帰国子女なのだろうが、僕はそれでも負ける気はしなかった。
 その模試での偏差値は70だった。一般の全国模試に直すと、大体偏差値80超えたラインに相当する。僕は6月に立てた目標、英80、国80、数70後半、公民60後半を最後の最後で達成したのだった。
 迷うことはない。僕の受験はさらに加速する。「ここまで来たから安心」などという気持ちは、これっぽっちも無かった。
 僕にとって、完全合格して夜間を抜けだす事は、奇跡を超えたさらなる領域である。「どこでもいい」僕は合格したかった。余裕など微塵もない。むさぼるように勉強を繰り返した。
 「落ちたら最後」、この言葉が毎日僕の脳裏によぎる。
 僕はついに親に全てを打ち明けた。
 「今年もう一度大学を受ける。お金なら必ず返す。一生のお願いだ。受験させてくれ」、僕の悲痛に満ちた声だった。親は動揺を隠せなかったが、これだけの成績を見せられたら誰も「やめろ」とは言えない。受験を許してくれた。
 もしそれでもお金を出してくれないのなら、サラ金から借りてきてでも受験するつもりだった。今思えば馬鹿馬鹿しいかもしれないが、当時の僕は、それだけ危機迫る状況だったのだ。
受験大学を決めた。「やりたいことで学部を選びなさい、偏差値じゃないんだよ」、こういう世の風潮に対する、最後にして最大の反抗だった。
 「勉強なんか大嫌い。どこでもいいから、ブランドが欲しい!」
 第一希望は東大文学部の後期試験。
 そこからは何でもありだ。文学部から、経済、法、商、外国語など文系完全制覇!「オマエは一体何が勉強したいんだ?
 早稲田政治経済学部(偏差値3教科67)、早稲田法学部(偏差値3教科66)、早稲田商学部(偏差値3教科65)。慶応大学総合政策学部(偏差値英語1教科70)まで受験。
 そして国立前期が空くので、東大ステップのために、日本で一番難しい英語入試と言われる「東京外国語大学、英語学科」(偏差値71)の受験を決めた。ここ合格すれば、大阪外語大との「日本2大トップ外大完全合格」が実現することになる。
 未だロ-マ字発音、全然英語が聞けない喋れない、しかし問題だけは完璧に解ける「受験マシ-ン」の、最高のパフォ-マンスである。「吐くほど頑張れば、それでも合格するんだ!」相変わらず僕はそう叫んでいた。
 計6校。これが僕の最後の舞台だった。これで落ちたら、もう僕には「受験」は不可能な領域である。
 こんな惨めな人生があるだろうか、僕は何度も自分に問いかける。
 すると自然と机に向かえる。この時はもう無心だった。何も見えなかった。「失敗してもやり直せるさ」、こんな逃げ道は無い。だから極限のレベルまで自分を追い込んだ。
 
 そんな中、国立大学一次試験である「センタ-試験」の受験表が届いた。戦いの緒戦はどこから始まるのか。
 僕はその試験会場に目を疑った。とんでもない名が僕を凍らせる。そう、そこにはこう記されていた。
 「試験会場、神戸大学」、と。
 僕に与えられた最後の舞台は、あの「神戸大学」だったのだ。今までの2年間、ここが全ての舞台だった。この地で様々なことを思い、苦しみ、「抜け出してやる」そう決意した。そしてようやくたどり着いた。その終幕の場所が「神戸大学」だった。
 何もかもが出来過ぎだった。
 ふと、これまでの戦いを振り返ってみる。1浪目の有り得ない全敗不合格からカズヤの合格、そしてシンジさんとの腐った2浪目、昼間生との偏差値80決戦、模擬試験ビラ、大阪外語大奇跡のキャンセル。考えてみれば「筋書きがあった」としか思えない2年間だった。
 僕はその時、ようやく気付いた。「これはドラマなんだ」と。
 今まで「何でこんなにツイてないんだ」、こう漠然と何度も苦悩した。その答えがここにあったのだ。
 「これはドラマだ、僕は今とんでもないドラマを歩んでいるんだ、日常にないこの加速は、すべてドラマなんだ」
 僕は震えた。
 平和で平凡だった高校時代が懐かしかった。毎日友達とバカやって笑っていたあの頃にはもう戻れない。今、自分は抜け出せないドラマの中にいた。


16、雪舞う神戸大キャンパス!運命のセンタ-試験が始まる!



 センタ-試験決戦日。僕はいつもの見慣れたキャンパスに立った。「神戸大学」、これが僕の前に立ちはだかった。しかし今日はどことなく、いつもと違う様に僕の目には映る。 「最後の最後までここか」、僕は受験票を握り締めていた。
 雪が降ってきた。
 僕は凍るような寒さの中、大学を睨みつける。
 「そうか、分かったよ、とことんやろうじゃないか!戦いだ!命を懸けた戦いだ!」
 誰に挑む戦いなのか。敵は大学か?夜間か?クラスの連中か?いや、違う。今の僕にはそんなものどうだっていい。
 僕がこれから挑み、そして今まで挑み続けてきたのは、他でもない「自分自身の運命」だった。「夜間」だ、「コンプレックス」だ何だ言ってきたが、それは全て自分の「運命」への挑戦に過ぎなかった。
 「自分なんかダメだ・・・」、運命に白旗を揚げれば全てが楽に慣れた。
 ただこの運命は、僕に余計にチョッカイを出し過ぎた。これでもかと、僕に「ドラマ」という不幸を押しつけてきた。それはヤリ過ぎだった。
 だから僕は戦う。「負け」はない。最後まで決着をつけてやる。運命とは何だ、自分とは一体何なんだ、地獄の底まで食らいついて、とことん見極めてやる。
 命を捨てた、その時の僕は原点だった。
 2年間かけて追いかけていたものは、紛れもない「自分自身」だったのだ。


 結果は合格ラインである、4教科90%を超えた。国語は「漢文」で手こずったものの、英語、数学では190点ラインをクリア。これで東大の1次試験は難なくパス。僕は倍率15倍から5倍へと進んだ。
 あくまでセンタ-は前夜祭みたいなものだ。こんな所でくじける訳にはいかない。僕の加速は誰にも止められないのだ。
 そして2月がやってくる。勝負を決する月である。ドラマはクライマックスへと走り出した。



17、2月。最後の涙!「こんな人生なら、もうやめだ・・・」、
思いも寄らない最悪のスタ-ト!



 入試直前まで家にこもって勉強し続けた2月19日。夕方に僕は神戸を出発した。
 「ここには二度と帰ってこられない」、そう噛み締めると僕は新幹線に乗り込んだ。車窓の景色は暗闇に包まれていた。

 東京の実家に着き、早めの床に就く。
 僕の心臓が高鳴っている。明日から連続で4日間、試験が続く。最後の勝負だ。最初の一発目は慶応大学のSFC。過去問題では確実に9割以上は取れる。「分からない」なんて事はまずない。受験者対象の模試では8位。シンジさんが繰り返した。「その成績は神の領域だ」と。
 受験は確かに運もある。成績の思わしくない奴が、奇跡で受かったり、逆に確実と思われていた奴が落ちたりもする。しかし絶対に受かる「神の領域」があるというのだ。それは志望の大学の全受験希望者のうち、成績最上位10名の者を指す。この聖域は「運」など作用しない。
 2年前僕が普通の高校生だった頃、模試の成績ランクに上位10名に記されている優等生を見ては、「こいつらは良いよな、落ちることなんてないもんな」と羨ましがっていた。また、どうやればそんな所に行けるのかさえ分からなかった。
 その「神の領域」に立って、僕は初めて気付いた。不安で不安でたまらないのだ。やればやる程、力が付けば付く程、僕は不安の極致に追い込まれた。
 いくら僕でも、3教科の早稲田ならベスト10などには入る力はない。3教科全部80オ-バ-のツワモノだっているはずだ。上には上がいるんだ。
 しかし明日のSFCは英語と小論文。同じ方式で、ここより偏差値の高い、大阪外語大には受かっている。正直僕にとって、一番受かる確率がある学部だ。少なくともベスト10には入る自信がある。だからこそ明日決めなくては、「受験全滅」を意味していた。
 「良かれ」と思って、SFCを最初にもってきた。今までの成績が僕を勇気づけると思っていた。ところが事態は全然違った。逆に僕は緊張に呑み込まれた。
 一晩中、2年間の苦しみがよみがえり、落ちたときの命を奪われる恐怖が、僕を押しつぶした。睡眠薬を3個も飲んだ。それでも眠れない。眠れればなんでもいいと思い、「カゼ薬」までも大量に飲んだ。「早く寝ないと」、焦れば焦るほど僕はおかしくなっていく。いくら力があっても、究極の集中力を要するSFCの難問だ。万全で挑みたい。
 去年も試験前は緊張した。しかし今年はそれをはるかに上回るパニックだった。「絶対に落ちることのない成績」を取った。しかしその栄光が、逆に重くのしかかる。本当に信じられない皮肉である。
 「何でなんだ、どうしてなんだ」僕は一晩中唸っていた。夜が明けた。結局一睡も出来なかった。
 目は真赤に染まり、叫び続けていたせいで喉も枯れている。「ちきしょう、ちきしょう」僕はそう何度も小声を吐きながら、家を出ていく。何かにとりつかれた様なその格好は、誰が見ても異様だった。
 試験が始まった。そこで僕は、ついに全ての限界を迎える。
 何も考えられない極限の状況の中で、僕は試験用紙の英文を眺める。いつもはスラスラ読めていたが、今日はいくら読んでも頭に入ってこない。神経がもうろうとしている。「落ちる、このままだったら落ちる」、恐怖が最高潮に達したその時だった。
 強烈なめまいがして、世界がぼやけた。そこで全てが終わったのだ。
 トイレにかけこんだ僕は、吐いていた。極度の緊張からくる神経的な症状だった。さらに昨晩の睡眠薬や風邪薬の、過多な摂取も災いしたのだろう。胃が痙攣しているのか、吐き気がいつまでも止まらない。
 実際1月に入ってから、ストレス性の血便が止まらなかった。健康管理はしていたが、神経の方まではどうしようもなかったのだ。体は悲鳴をあげていたのだろう。ここにきて僕はついに、限界に打ちのめされた。

 帰り道、緊張から開放され笑顔がこぼれる受験生の人波の中で、僕は顔をグシャグシャにしながら、泣いていた。結局この日、試験用紙を前に何にも出来なかったのだ。屈辱の何ものでもない。「ここだけは受かる」、その自信が一番のプレッシャ-だった。
 よく受験参考書には、「本番前は誰でも緊張するんだ。だからそんなのには打ち勝て!」といったメッセ-ジが書いてある。「誰でも同じように」というが、本当にそうなんだろうか。それはあまりに厳しすぎる話だ。少なくとも僕は、2年と半年の受験には耐えられた。しかし「本番」というその重圧には、耐えることが出来なかったのだ。
 32カ月の戦いの結末がこれか、何も良いことなんてないのか、そう思えば思う程、本当に惨めだった。
 「こんな人生なら、もうやめだ・・・」家に戻っても、僕は涙を抑え切れなかった。3度目の涙だった。


 しかしこれが最後だった。
 この最後の涙が、もう願うことすら忘れてしまった「勝利」を呼び込むのだった。そう、ラストシ-ンはついにここから始まるのだ。
 「奇跡」が静かに僕に舞い降りた。




18、かかってこい,僕には敵などいないんだ!



 僕は泣いていた。いつまでも泣いていた。「もうどうなってもいい」、そう全てを捨てていた。すると不思議なことに、いつの間にか僕は眠りにおちていた。精神の限界を超え、疲れが波となって押し寄せてきたのだ。何日ぶりか、僕は深い眠りの中にいた。


 翌日の2月21日。早稲田の法学部入学試験。
 その時、僕の体調は完璧だった。
 脳はさえわたり、力に満ちあふれている。昨日、「限界」にまで追いつめた事が、全ての勝因だったのだ。ピ-クを過ぎた僕の精神は、試験のみに集中出来る最高の状態にあった。
 大教室には400人程度の受験生がいたが、敵はやはり自分自身だった。
 「この運命に挑戦してやる、今なら僕を止められないぞ!ドラマは終わりだ!」
 僕は心の中でそう叫ぶと、自分の力を信じた。もう、「運命」は抵抗出来なかった。
 体が万全ならば、やはり問題などどこにも無い。その年は国語が難化したが、僕には関係なかった。完璧に読める、解ける、そんな興奮さえ沸き上がってくる。英語もスラスラ読めて、迷うところはない。「満点近く取らないと受からない」、ここまで歪んだ僕の勝負だったが、この時はそれでも手応えがあった。1年目とは違う、「完璧」という感覚だ。
 22日の政治経済学部、23日の商学部、早稲田3連戦は、僕の能力が思うところなく発揮された。
 25日は国立、東京外国語大学だった。
 SFCより一歩レベルが上回るこの大学の試験は、英語一教科。長文から英作文、要約、そしてヒヤリングと何でもありの、英語に限れば日本最難関だ。日本中から英語を極めた学生が集うという。
 大阪外語大を制したこの僕だ。腕がなる。この頃になると、もうプレッシャ-などどこにもなかった。
 2時間半の試験時間、僕の全てを試験用紙に書き付ける。完璧だった。最高の表現が出来た。大阪外語大をしのぐ出来だった。
 全ての受験を終えた後、僕はすがすがしい気持ちに満ちていく。思いも寄らないことに、それは初めての経験だった。


19、クライマックス!運命が変わる日!



 東大の試験日まで2週間を残す2月28日。早稲田の政経、法学部の合格発表である。 僕は政経のキャンパスのベンチに座り、静かにその審判の時を待っていた。「カズヤも1年間ここで勉強しているんだろうな」、ふとそんな事を考えた時だった。
 僕の周りにいる受験生の群集が、ドッと湧く。そう、合格番号の掲示板を持った職員が、やってきたのだ。合格発表が始まる。周りの受験生、そしてそれを祝おうとする早稲田の応援団。
 「ついにクライマックスか」
 泣きそうになる気持ちを僕は抑えた。-11128-運命を決めるこの番号を確認する。緊張からか、手が震えている。ノドもカラカラだ。しかし今日は負けない。やってやるよ、これが最後の言葉だった。
 僕は前に出た。


-11024-
-11050-
-11053-
-11080-
-11082-
-11128-
-11134-
-11135-

 ・・・・・合格
 「終わった、終わったんだ」、力が一気に抜け、今までの記憶がとんでいく。全ての感情を超えた。それは夢の世界だった。
 ようやく気付いた。冷静に考えられた。これだけ偏差値を上げたんだ、だから受かって当然なんだ、何をそこまで悩んでいたんだ。
 「呪い」の様に苦しみ続けた受験という大命題。勉強している時は、どれだけ難しいんだろう、と悩み続けた。「死」まで覚悟した。しかしそれだけ苦しめば、絶対に手に出来るものだった。すごくも何ともない。努力さえすれば手に入るという、「簡単」なものだった。全てが終わった今、僕は憑き物が取れたように、そう悟った。
 事実これだけ成績があれば、もう落ちることはなかった。あれだけ恋焦がれた「合格」が、次々と僕のもとに舞い込んできた。

 早稲田大学政治経済学部、合格。 
 早稲田大学法学部、合格。
 早稲田大学商学部、合格。
東京外国語大学英語学科、合格。

 「ウソじゃないよな、本当に合格したんだよな」「もう、取り消されるなんてことはないよな」、僕は何回も自分に問いかける。合格した、その事実を受け入れるまでに時間が費やした。信じられなかったのだ。
 狂喜、そして狂喜。僕は叫びながら喜んだ。最後まで僕の姿は格好悪く、人間臭かった。もちろん大学に受かった事も嬉しい。ただ一番僕が嬉しかったのは、「自分自身で自分の運命を変えたこと」だった。「受験」というフィ-ルドをとった。しかし最終的に追い求めたのは「受験」の先にある、「自分自身」だった。だからこれだけドラマがあったんだ。 


20、大団円!



 「受かりましたよ!受かりました!片っ端から合格しました!」
 僕の歓声が響いている。もう誰にも文句は言わせない。完全合格だった。受話器の向こう側のシンジさんは、感激して泣いてくれた。「やりましたね!絶対斎藤サンなら受かると思ってました!」、もう会話にさえならない。
 彼は僕と同じだった。ブランドを得るために、また合格証明書をもらうためだけに、10万円もの旅費をかけて「筑波大学」を2月に受験していた。入学するつもりなんて毛頭無いんだから、全くの無駄である。もう意地であった。
 その筑波にも合格していたシンジさんには、二重の喜びである。彼は僕と電話しながら、もう一台の携帯電話でカズヤにつないだ。電話の向こうでは、僕と話しながらも彼はカズヤに興奮気味に僕達の勝利を伝えている。
 「斎藤サンに代わります!」彼は電話を二つ逆さにくっつけて、僕の声をカズヤに送ろうとした。
 「聞こえますか-!斎藤です!受かったぜ-!」
 もう喜びから、自分が何を言っているのかも分からない。ただ1年ぶりに、彼に「勝利」を伝えたかった。彼の上京の日から、会うことはもちろん、一度も話したことさえ無かった。
1年前、必ず合格して、彼の前に再び「対等な友」として現れることを誓った。それが今日だったのだ。
 電話同志をくっつけたので、電波が混線し雑音がひどかった。それでも彼の祝福する声が聞こえてくる。そう、あの懐かしい声だった。
 「おめでとう、本当におめでとう」 
 「ぎゃははは、聞こえないよ、声が!雑音がひどすぎる!何っ、何-?」僕は何回も何回も聞き返していた。
 シンジさんも入り混じって、3人は雑音が飛び交う中、大声で叫び合う。笑い声はいつまでも途切れることはない。
 
 僕達が出会ってから2年経った。その3人の戦いは、「勝利」という最高の形で幕を下ろす。ついに3人は、3人とも同じラインに並んだのだ。しかし多くの時がたった。思えば長すぎるドラマであった。
 そして僕達は勝った。だが何度も言う。それは「受験」にではない。その先にある「自分自身」に勝利したのだ。
 歓喜のラストシ-ン、まさに「大団円」であった。


21、3月。日本頂上決戦!



 4つの合格という武器は、僕に強固な自信を付けた。これまでの実績、成績は「プレッシャ-」から、僕を後押しする「パワ-」へと変わっていた。「呪縛」から解かれた今、恐いものなどこにもない。
 サ-クル中に合格メ-ルを送ると、彼らさえもう余裕が無くなった。「おめでとう」、この一言が神戸の地から一切届かない。しかし僕はそれを腹立たしいとは思わなかった。むしろ「沈黙」こそが、最高の誉め言葉である事を分かっているからだ。
 後は天下を取るだけだった。
 3月13日、東大2次試験当日。偏差値80の僕の第一志望校だ。「今ならいける」、あの言葉が確信を持って迫ってきた。
 試験会場の東大に着く。「とうとうここまで来たか・・・」、僕は込み上げるものを感じていた。教室に入ると、そこには今までとは違う、異様な緊張感が張りめぐらされている。当然だ。「センタ-8割後半」を一次試験合格ラインとしているため、「記念受験」「勘違い野郎」はもはやここにはいないのである。受験者全員が最高レベルを誇るツワモノ達だ。
 試験科目は英語と日本語の論文。試験時間はそれぞれ2時間半で、合計5時間もある「最強」の試験だ。そのレベルはもう受験生の手に負えるものではない。ここまで来ると、「運」など通じない。日本の頂点にふさわしい「最強の勇者」のみが、合格できる正義の場である。
 試験が始まると、僕は悠然と立ち向かった。
 「今なら何でも出来るんだ、誰にも負けることなんてありえないんだ」
 もうそこには、あの惨めな僕の姿はない。誰の目にも映るものは、自信に満ちあふれる「勝者」の輝きであった。
 英語ではもう「読めない」なんて問題は存在しない。4ペ-シ弱の「最高レベル」の英文を、わずか30分程度で読破。何回も何回も、書き直しがで出来るほど完璧に答案を作った。予定通りである。
 2時間目の「日本語」に突入する。
 例年の試験パタ-ンは、難解な哲学書から膨大な文章が出典され、それを踏まえての2400字論述。テ-マは「人間とは何か」であった。僕が東大でも、文学部を受験した最大の理由は、このテ-マゆえだった。
 思えばこの2年を超える年月、僕は「自分」、そして「人間とは一体何なのか」についてずっと考え続けた。「人間」、これは僕の人生のテ-マでもあったのだ。
 その年、試験傾向が大きく変わった。テ-マ「人間」は動かないものの、出題に使われたのは「文章」ではなく、たった3枚の「写真」だった。僕はそれを見た瞬間、思わず吹き出した。笑うしかない、もう何でもありの、次元を超えた難しさだったのである。
 2時間半、僕はその3枚の写真を使って、この戦いのの思い全てを、2400字に叩き付けた。
本音を全てさらけ出せ!「本当の自分」って、「人間の真の姿」って何なんだ?醜さと向き合え、直視しろ、そこから全てが始まるんだ!それが「人間」なんだ!
答案は出来上がった。悔いはない。僕は静かにペンを置いた。その瞬間、32カ月ほぼ毎日受験勉強という悪夢から、僕はついに解放された。


22、堂々終戦!これが僕の人生だ!



 3月23日東大合格発表日、この日は僕の誕生日だった。この「ドラマ」の結末を飾るにふさわしい、僕はそう感じた。「舞台」は全て整った。
 この日、僕は一人で発表を待つ。その内心には、感極まるものがあった。
 ここまで波に乗っている。「今の僕には不可能などない」、こんな傲慢にも似た言葉でさえ、確かな説得力をもって響いてくる。
 「東大に受かれば何も言うことは無い。この地獄の日々が全て報われる。正義は最後に必ず勝つ。頂点に立つのは、この僕だ!」
 僕は「最後の勝利」、そしてこのドラマの「結末」を待つだけだった。
 恒例のごとく東大の学生応援団が、「今か、今か」と騒いでいる。そして時刻は10時を指す。ついに大学関係者が、合格掲示板の周りにあるロ-プを外した。全学部、同時合格発表だ。受験者達が一斉に動き出す。すぐに歓喜の声が、あちらこちらから飛んでくる。僕は深呼吸をして、自分自身を落ち着けた。その時、「受かる直感」が脳裏をよぎる。ドラマが最高の加速を始めた。僕は群集をかき分け、掲示板の一番前に立つ。顔を上げた。 「あ・・・・・」


 そこに番号はなかった。


 何かの間違いだ、僕はもう一度番号を確かめた。何度も何度も確かめた。しかしいくら目を凝らしても、そこにはあるはずの番号がなかった。僕の番号だけがなかった。
 「はははははっ」、その時僕は笑っていた。「・・・・落ちてるよ、何だ落ちてるよ」僕はおかしくてたまらなかった。ここまで、ことごとく受験大学は合格してきた。正義は必ず勝つ、確かにその通りだ。偏差値80まで上げた、それだけの力があれば落ちるはずはなかった。
 ただ「どこまででも受かる」と思い込んだ。これが間違いだったのだ。僕は肝心な事を忘れていた。
 
「100やれば、10返ってくる」

 この受験はこの一言から始まったはずだ。そう、これはそんな「ドラマ」なのだ。そしてその主役は他でもない「僕自身」なのだ。
 最後まで僕の人生はこれだった。これがくつがえされる事は、とうとう最後の最後までなかった。何を思い上がっていたんだ、東大合格?それじゃあ100やって100返ってきてるじゃないか、僕は痛感していた。
 これだけ勢いに乗ったが、それでも100やって100、ましてそれ以上は絶対に返ってこなかった。だから早稲田、外大に落ち着いたんだ。長い長いドラマだった。しかし考えてみれば、「100やって10返ってくる」、結局これは何も変わらなかったのだ。
 そんな馬鹿馬鹿しさが、たまらなくおもしろかった。だから僕は笑っていた。「番号がない」、この光景がドラマの結末に一番ふさわしかったのだ。
 「やっぱりね」
 何度もこうつぶやいた。そして「祭り」の様なその舞台から、僕は静かに引き返していく。

 そんな帰り道、僕はふと考えた。
 「これからどうする」
 さらにもう一年やれば東大に受かるかも、そんな事も頭をよぎった。
 しかしその時、僕は心から言えた。

 「すいません、もう出来ません、勉強嫌いなんです」、と。
 「オマエはバカだね、惨めだね、東大落ちてさ」、そう言われても、その時の僕は何も悔しくはなかった。「そうなんです、僕バカなんで・・・」、この一言が言える。むしろ卑屈にさえなれた。だけど気分は心から晴れやかである。
 何故なら、僕は目指していたブランドが手に入ったからだ。確かに東大は落ちた。しかし去年かなわなかった場所にまで、死ぬ気で這い上がった。僕を支える確かなものが、今は手に出来た。それは何を言われても、動じない「余裕」だった。自分とはこういう人間だ、という確かな「自己」だった。
 「俺は本当は頭が良いんだ、能力があるんだ」「ブランドより、人間性だよ」、大人になるにつれて、いつしか自分を守るために、たくさんの「言い訳」を身にまとった。しかし、ようやく決着がついた。僕の人生からコンプレックスが消え去ったのだ。虚飾はもはや一つもない。目の前には、裸の自分自身の姿があった。自分は一体何者なのか、何が自分にとって一番幸せなのか、ようやく分かった。 

 僕のドラマは終わった。33カ月。本当に長かった。しかし「ゴ-ル」は「スタ-ト」である。新しい自分がそこにいる。そう、ここから僕の人生は始まるのだ。何が起きるか分からない。だけど僕には不安はなかった。
 何故かって?
 答えは簡単だ。確かな「自分」がいるからだ。33カ月もの時間をかけて、ようやく出会えたのは、紛れもない本当の「自分自身」だった。
 いつまでも僕の側にはそんな「自分」がいる。苦しくなった時、何か壁にぶつかった時、「自分自身」に尋ねてみればいい。「どうしようか」って聞いてみるんだ。そうしたら、必ず答えが見つかるだろう。
 人生って楽しいな、そんな言葉が僕を包み込む。

 何だ、普通じゃないか。僕はそう思った。
 ドラマが終わったその後に、いつもの変わらぬ僕がいた。
 何もかも「普通」の僕がいた。