偏差値70からの大学受験 あとがき

あとがき

 学歴社会ほど、人に優しい社会はない

 この「ドラマ」を通して、どうしても伝えたかった事がある。それは「学歴社会ほど、人に優しい社会はないのではないか」という事だ。
 「死を決意しなければならなかったじゃないか、受験なんて恐ろしいものだ」、そう感想を抱いた読者の方は多いかもしれない。しかし僕は、そのさらに一歩先にある事を伝えたいのである。

 世間では「学歴とはひどいもの」、とよくバッシングされる。しかし本当にそうなのか。 学歴社会ではその「学歴」でしか人は判断されない。上に這い上がるには、良い大学に行かねならない「プレッシャ-」がある。しかしそのチャンスは何回もある。浪人は何度でもできるし、一般より偏差値の低い、「編入」という手段まである。
 つまり中学入試、高校入試、大学入試、浪人、編入、大学院入試と実に6回もやり直せる機会がある。その気になれば、大学なんて社会に出てからも受験できる。「社会人枠」なるものもある。
 そしてこの「ドラマ」を見て、分かってもらえただろう。「受験」は勉強し続ければ必ず合格する。誰もが勝利を手にできる。
 運命を引っ繰り返す、もしくは自分自身を変える位の勝負を挑むとき、チャンスが何回もある、「受験」というフィ-ルドで僕は本当に良かった。2浪目は編入を入れて、7回もの試験があった。もし一発勝負なら、慶応のSFC失敗で僕は、完全な敗者になっていたはずである。
 最終的に僕のドラマとは、実は「失敗の許された勝負」だった。「失敗があってこその勝負」だったのだ。
 世の中はサバイバルだ。人間全員に「差」が生まれる。その「差」を決めるものが、もし「学歴」じゃなかったらどうなるか。
 その明らかな例がスポ-ツだ。誰もがイチロ-と同じ練習量を積めば、彼と同じ様な野球の実力を身に付け、メジャ-リ-グで活躍できるのか。そうじゃない。「努力」を超えた、「才能」で勝負が決まってしまう。「差」が努力だけでは決まらない。選ばれたものしか「勝利」を手に出来ない。これほどの「絶望」はないだろう。
 「学歴」に「個性」はない、だからこそ素晴らしいと思う。誰もが努力すれば必ず手にできるからだ。何て人に優しいんだろうか。「偏差値じゃない」、こんな甘い言い訳があるから話がおかしくなり、「何で勉強するか」という命題の意味が、分からなくなってしまうのだろう。
 どんな場所にいる人にでも言える。中学生、高校生、大学生、社会人、今居るその場所に、本当に満足しているのかという事だ。正直になって、本当の自分を見つけだそう。そうすれば全て楽になれる。
 もしまた走り出す人がいたら、是非ともこの「ドラマ」を力に変えてほしい。「こんな悲惨な話があるんだ、自分はマダましか」、こう感じてくれたとき、この「ドラマ」はあなたを初めて大きく揺り動かす。必ず加速させてくれる。

 僕のこの人生は一度きり。自分は輝いていたい。だけど現実には、他人との否定できない「差」が生まれる。安堵に落ち着けない。いつまでも走り続けさせる。恐くて恐くてしょうがない。「僕は一体何者なんだ」、そう毎日毎日、怯えていた。
 そんな時、探し続けた本当の「自分」が、僕の目の前に現れた。
 
 「いくらでも失敗していいよ、君はやり直せるんだから」
 
 それは初めて僕に差し伸べられた、「救いの手」だったのかもしれない。