偏差値70からの大学受験 ラスト〜その後編と「お別れ」

 大学4年間、僕を心の底から夢中にさせたもの。それは何を隠そう、「学問」だった。
 
 僕がとった将来への選択。それはさらに「学問」を追い求めるという道。院進学も視野に入れながら、僕は今夏留学する。俗に満ち、「偏差値」に溺れあがいた男の、誰もが想像し得ない一応の結論だった。
 
 就職活動が迫ってきた。世間で言う一流企業、エリートコース。もう僕には全く眩しくは映らなかった。
 それよりも自分自身の学問における「可能性」。さらに努力を続ければ、こんな僕でもどこまでその「可能性」を広げられるのか。
 可能性は「学問」だけじゃない。その先にもまだまだあるみたいだ。一つ「学問」の可能性を見つめていたら、まだまだ様々な領域で、様々な可能性の扉があることに気付かされる。
例えば人間関係、スポーツ、肉体的能力。もちろん就職、社会での適応能力。挙げればまだまだ尽きないだろう。もしもその全ての扉を開けることが出来たなら、一体どういう自分に出会えるのだろうか。胸の高鳴りは収まらない。
 だからこそ、まずは「学問」を究めたい。一つ目の可能性をこの手でこじ開けたい。
 「4年終わったら早く就職しなきゃ」、もうそんな時間感覚に意味はない。
 
 まだまだ僕はこんなもんじゃない。まだまだ成長出来るんだ。
 
 図々しくもこんな思いに囚われてしまった僕。
 そこにはもう外部の価値基準など、全く必要はなかった。
 皮肉なことだが、世間の言う「自分自身の物差しが必要なんだ」というキレイゴトが、今僕にとって一番大切なことになっている。

 
 振り返るのも難しいが、そんな結論に至った僕の大学生活はこうだった。
 
 
 どこにでもいる普通平凡の僕が、あの時「受験」を通して人生自体ある種異常な加速を上げた。
 聞こえ良く言えば、「目標」「夢」にむけ頑張った。聞こえ悪く言えば、「努力」という一種の苦しみに耐え抜いた。
言い方はどっちだっていい。そうして、ただひたすら上だけ見つめてがむしゃら走り続けたら、ほんの少しでも自分自身の新しい「可能性」を見つけ出せた。少なくとも「勉強」という領域では、全く想像さえ出来ない新しい自分と出会うことが出来た。
 自分自身の可能性を見つける一種の歪んだ喜び。そしてその方法。
 
 これを体感してしまった僕が大学に入学した。
 
 もう何も強制は無くなったが、今更走りを止めるなんて気持ちは一切起きなかった。せっかくついた加速だ、無駄にはしたくない。
 「初めつらいけど、どんどんやりだせば楽しくなるランナーズハイ」、これがどんな事でも自分を新しい可能性へと押し上げる「流れ」。
 こう確信を持っていた僕は、ひとます授業で触れ得る様々な「学問」に、時に情熱的に、時に冷静客観的にも没頭した。専門の経済学を筆頭に、文学、法律、社会学。そんな中で、特にのめりこんでいったのが「英語」だった。大学では「言語学」と呼ばれる領域である。今思えば僕にとっては俗っぽい、という点がよかったのか。ともかく熱中していった。
 気がつけば教授の研究室に通い、また自分でどんどん勉強を始めている。
 「君の力が試験で測られているうちは、真の学問ではない」、こんな言葉にいたく共感し、TOEIC900点、国連英検A級など主要な資格はその過程でとっていった(英検1級は惜しくも未だ取れていないが(笑))。
 自発的にあえて自分を学問へと走らせるのは、瞬間的には確かにツライ。しかし、その過程で得られる力、可能性は大変な魅力であり、こうした状況を先程も「ランナーズハイ」と称した通りである。もちろんその基礎力は、あの受験で培われた事は言うまでも無いが。 

 こうして再び一人自分磨きに励むからこそ、僕にとって大学に入学した事にもう一つ大きな意味がある。
 その意味を与えてくれたのは、心から尊敬できる仲間達だ。
 自分ももっともっと頑張らなきゃいけない、そういつでもアツくさせてくれる仲間たち。彼らは僕の一番の宝物だし、こうした最高の環境は、この大学に入学しなければ得られなかったものだと強く感じている。
 (もちろん神戸でも素晴らしい学生もいたのだろうが、僕自身がまだ受験勉強という努力レベル程度で苦戦していた。これでは話も釣り合わない。)
 
新入生時、もはや強制がなくなるとどの学生もこぞって勉強を止め、遊び狂ってしまう。これは人間だもの、仕方ない。
ただし1年から2年が経った時、「充電期間はもう終わり」とケジメをつけ、次の目標を自ら設定し再び走り出す学生がいる。そう、また自分自身だけの戦い、成長を志すのが彼らであり、僕にとってこうした友は貴重であり、また互いに切磋琢磨しあえる大切な存在だった。この時僕は初めて、受験勉強しまくりこうした大学に入学してきてよかったと思えた。
 つまり同じ大学に籍を置いていても、長期でみればやはり様々な学生がいる。現状に満足か、さらに上を狙うか。どっちが良いか、正しいか、人それぞれなのは自明だが、僕はやはりいつまでも成長目指していく姿に共感し、感動する。


 最後に、「偏差値70から大学受験」という腐ったドラマを、やはりこの言葉をもって終わりにしたい。
 
 人生はどこまでいっても階段である、と。 
 
 でっかい夢を目指すなら、自分自身もっと高みへと駆け上がりたいなら、
そこには必ず苦しみに耐え、頑張る事が要求されてくる。
 だからこそ目標をしっかりと見据え、努力を怠らないという「実行力」こそが、一番大切だとあの時強く感じた。
 そして4年経って、その感覚は真理であるとまで今では信じている。
 
 しかしここで一番大切なのは、そうした「実行力」は一朝一夕では身に付かないという事だ。
 ある朝起きたら突然何でも出来る様になっていた、なんて事は絶対無い。
 地道な努力を抜いて理想の自分になれる、なんて事は絶対無い。
 
 僕の貴重な仲間に、公認会計士、司法試験、はたまた大学院へ学問のプロを目指して、日々見習うべき努力に励むヤツらがいる。勉強だけじゃない。演劇や音楽の道に熱中し、真似できない頑張りを見せてくれるヤツらがいる。
 「どうしてそこまでやれるのか」、そう問いかけたとき、
 彼らには共通して、今までも何かに打ち込んできた経緯が必ずある。
 それが受験であったり、スポーツであったり、ともかく必死に何かを追いかけて、自らの「実行力」を着々と磨き上げてきた過程がある。
 
 
 人はいつか果てしなく大きな夢を見る時がやってくる。その時に必要なことは、その高みを明確に捉え、惜しみなく努力を注ぎこめる「実行力」。
 僕は階段を一歩ずつ歩みながら、日々「実行力」をまずは磨きたい。努力しているなら、上を目指しているなら、その時間は決して無駄じゃない、それだけは少しずつ分かってきた。「楽した方がいいよ、過程なんて関係ない」「結果こそが一番大事」、こんな言葉がいかにくだらないか。ようやく分かってきた。
 夢の基準は結局全部自分の中にあったんだ。
 
 
 
 まだまだ止まるには早すぎる。前を向けば道がある。
 ドラマはいつでもこの手で起こせるもの。チャンスは誰にでもある。
 
 図々しく、こんな僕がどこまでいけるのか、とことんやってみようかと思います。
 それではここらへんで、
みなさんとはひとまずお別れですね。 
 
 お互い夢を追いかける時間は苦しいですが、
 その「苦しみ」を「快感」と感じるようになってしまっては、もはや病気ですか(笑)
 どうか、みなさんもお元気で。
 いつかどこかで、会えたらいいですね。
 
 極限まで腐敗し、何よりも誰よりも人間くさい、
 そんな一つのドラマをここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
 
 さようなら。
 そして未来へ。




2004年8月 作者 サイトウでした。