2006現在までのサイトー(筆者)さん経歴

2001年
早稲田大学経済学部入学

2002年
様々な契機を経て、英語学習を開始する。(模擬試験再受験、偏差値80超(9月)、TOEIC820点獲得(12月))

2003年
英語学習が加速しだす。同時に英語人生をゆるがす、衝撃的事件が訪れる。フランス人の友達が出来、初めて英語で人とはで話す機会が訪れるが、全く通じず、今までの努力を全て否定される事態に。communicationについて、そもそも「英語とは何か、言語とは何か」に考え始める。(国連英検A級合格(6月)、TOEIC865点獲得(6月) TOEIC905点獲得(12月))

2004年
難関である早稲田大学交換留学に合格。(TOEFL230点獲得/300点満点)一年間アメリカNY、Syracuse大学へ、校費留学決定。この時、就職という道を完全に断ち、人生全てを未だ全く経験のない、「留学」に、次の新しい人生そのものを賭けることを決意する。同時に早稲田大学を3年と半年で全単位取得(プログラム上、最速)。これを機に所属していた国際金融のゼミを自主退部、「経済学」を完全に修了する。

いよいよ準備が整った6月、早稲田で自主的に参加した「linguistic ゼミ」に感動し、linguisticに強烈な興味を抱くようになる。(今現在も尊敬する、早稲田大学Professor. Newell氏が担当)

同じく6月、念願の大目標であった英検1級の一次試験に合格も、二次にて不合格A。

8月、運命のアメリカNYへ留学。(ちなみに初海外)

留学一年目

9月、人生を完全否定される。言葉が全く通じず、日常会話でさえ理解不能。また文化にも全く適応できず、まさにIDIOT。初めて人間として最低限の扱いをうけ、またそれを受け入れてしまうくらい、自分の低レベルにきづく。それでも授業では無謀にもgraduate(大学院プログラム)に挑戦し、初めて本格的にlinguisticを学ぶ。しかし当然のごとく、最初からつまずき、勉強でも挫折する。

10月、基本的に日本での蓄積は何の役に立たないことを痛感し、自分を180度進化させなければ、この地アメリカでは生きていけないと気付く。

ここアメリカの文化を身につけ、対等に生きていける、という当時では考えられない目標をたてる。その最優先事項として英語を鍛え上げるのが一番と思い、日本語を一切絶つことを決意する。友達、両親、誰からも消息を絶つ。24時間、365日、全て英語だけの生活が始まる。

基本的にこのころは、いかなる失敗も失笑にも耐えられる「免疫」がつく。そして人生で一番あがく。「外国語」としてではなく、「第二言語」として英語を学ぶことについて深く考えるようになる。そして毎日毎日言語の壁、文化の壁に悩みに悩む。「アメリカ人の親友を作りたい」、そうアツく語り、自分よりはるかに積極的に動くもうもう一人の早稲田留学生に刺激される。また彼と競い合う意識が芽生える。

11月、親友PAN ALEXに会う。(上海の大学で飛び級し、なおかつTOEFL満点で渡米してきた若干21歳の大学院生)脅威の積極性、アメリカという文化に異次元のスピードで入ていく奇跡を目の当たりにする。そして共にアメリカの文化、アジア人がその壁を越えることについて、毎日語り合い、そして二人で常識はずれなペースでの挑戦がはじまる。

12月「1年では足りない、アメリカで完璧に満足するまで残りたい」と強く決心し、同大学のlinguistic学部、大学院コースへ入学へむけ、applicationを出願する。学部長から推薦状をもらう。受験したTOEFLで270点/300点満点を記録する。

1月
2学期目が始まる。アメリカ人とのcommunicationが60%可能。internationalstudents なら100%可能になる。linguistic学部で最も有名である、Bhatia教授の授業を受け、感銘する。改めてlinguisticへの思いを強める。また同時に世界中からあつまるクラスメートにも、毎日刺激をうける。

2月
Syracuse大学linguistic大学院コースから、正式に合格。同時に、非常勤講師(日本語TA)の職、そして授業料全額免除の申し出を受ける。この頃から、英語を最終段階へ引き上げを図る。アメリカ人をメインにしぼったcommunication専念する。それでももちろん、言語だけでなく、文化の違いに改めて何度も挫折する。

3月
突然TAスカラシップがキャンセルされる。次の人生が一気に閉ざされる。その理由はより良い人材が手に入ったということ。しかし実情は自分の英語力が、合格点に達していないことが大きな理由だと告げられる。毎日教授のOFFICEに通い、大騒ぎになる。あきらめたら、人生が終わる、こう強く心にとめ、抗議を続ける。

4月
この頃からアメリカ人とも80%というほぼ完璧に近くcommunicationをとれるようになる。そのとくに親しかったアメリカ人3人から、次の年は一緒にすまないかと誘われる。交換留学の終わりが迫り、残りたいという気持ちが強くなる分、TAの講義は平行線をたどる。

5月
交換留学が終わる。同時にもう卒業単位を取得していた早稲田大学も卒業。TAの講義は結局、実らず、ただ一コース無料で受けられるという特権を得るにとどまる。しかし日本に帰っても、自分にはやるべきことは何もないことを痛感している。

6月
アメリカに帰国。多少の学費を払っても、経験には替え難く、アメリカ人3人と同居、そして大学院生活1年目を開始させる。

2005年 留学2年目

9月
大学院が始まる。この頃から今までにまして睡眠時間が少なくなる。勉強と文化探求の日々。

12月 
72時間、あまりの多忙に眠れないということを経験する。(期末試験、そして文化探求)この頃でもう1年と半年近く、定期的に日本語を使っていないことに気付く。軽く漢字が書けなくなる。冬休み、アメリカ人の友達の家を全部回る。所用期間一ヶ月。最後はNYCのブロンクス、ハーレムに住むBLACKの友達の家にもう一人のWHITEの友達と泊まり、様々な極限的な経験をする。英語での生活がほぼ問題なくなる。この頃のふるまい、話しかたなど、「とても1年半のアメリカ滞在とは思えない」との評判をうけるようになる。

1月
日本へ強制送還。完全に無一文になる。(TOEFL受験、297点/300点満点を獲得する)

2月
東京都心、某英会話スクールから史上最年少でTOEIC講師に採用される。TOEIC600点講座をシラバスから任される。東京某大手予備校、英語科に所属する。(念願である英検1級に楽勝合格、そしてTOEIC965点も取得(LIS満点))

3月
Syracuse大学から、正式に非常勤講師(TA)のオファーを再び受け、復学が決まる。

7月
日本での職を辞め、アメリカへ帰国。

現在の状況
Syracuse大学linguistic大学院2年生同時に同大学のJapanese101を担当する非常勤講師でもある。(給料つきで、なおかつ学費は全額免除。アメリカでも何とか自立出来るようになる。)毎日の過剰な勉強時間に加え、アメリカ5人の一緒に住み、いまだ毎日新鮮な学習の毎日を送っている。現在の一番の興味は、phonologyをからめた英語教育。そしてsocio culturalなTESOL アプローチの二つ。基本的に、第二言語の習得に興味を抱いている。